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翻訳者ネットワーク「アメリア」

帽子屋の翻訳十二夜

連載第1回 翻訳の難しさ、楽しさ

 みなさん、こんにちは。
 実務翻訳者の高橋です。現在の専門はIT・テクニカル分野ですが、過去には文芸やゲームなども含めていろいろな分野を経験しているので、ITに限らず実務翻訳全般でおもしろそうな話をしていこうと思います。今回は手はじめとして「翻訳の難しさと楽しさ」ということについて考えます。

 「あめ、あめ、いっちまえ。おとといおいで」

 これ、何だかご存じですか。英国の伝承童謡、いわゆるNursery Rhyme(日本では「マザーグース」の名でも知られています)に出てくる有名な一節、“Rain, rain, go way, Come again another day,”の訳です。子どもの頃の記憶なので前半は曖昧ですが、後半ははっきりと覚えています。この言い方を知らなかった当時の私は「変だよ、おととい来られるわけない!」と、この日本語に対する強い違和感をいつまでも覚えていたからです。その後、「おととい来やがれ」という慣用句があることを知り、さらに英語でNursery Rhyme を読むに至ったとき、この幼少期の違和感がとつぜん思い起こされました。「そうだったのか。『おとといおいで』って、素晴らしい名訳だったんだ!」

 少しおおげさに言えば、子どもの頃のこの言語体験と、英語学習期における再認識が、私にとってもっとも原初的な「翻訳体験」だったといえるのかもしれません。

 次は、もっと身近な話をしましょう。つい先日見かけた実例なのですが、register for a XXX account という原文が「XXX アカウント【を】登録する」と訳されているケースを見かけました。account という単語はいろいろな意味を持っていて、ただでさえ厄介なのですが、IT 関連では「アカウント」というカタカナ語も最近はだいぶ一般的になりました。日常会話でも、「Twitter のアカウント持ってますか?」などと言いますよね。では、「アカウント【を】登録する」のでしょうか、「アカウント【に】登録する」のでしょうか。

 まず、辞書でregister for の用例をさがしてみると、register for a course、register for class などが見つかります。やはり「コースやクラス【に】登録する」という感じです。ところで、ITで使う「アカウント」ってどんな意味なのか説明できますか。たとえば『ジーニアス英和大辞典』では、

 アカウント《パソコンやネットワークを利用するための資格およびそのための課金;設定したパスワードが必要》

と説明されています。そのほかの辞書も、

 アカウント:( ネットワークで) 情報サービスを利用できる資格(ランダムハウス)
 アカウント《システムへのアクセス資格; 元来 課金対象となることからきた呼称》(リーダーズ)

 とほぼ同じです。どれを見ても「資格」と書いてあります。資格であれば、「〜【に】登録する」ではなく「〜【を】登録する」と言ってもおかしくなさそうですね。

 念のために、英英辞典でもaccount をひいてみましたが、IT 的な語義が載っているものはまだ少数派のようです。

 an arrangement that sb has with a company that allows them to use the Internet, send and receive messages by email, etc(Oxford Advanced Learner's Dictionary)

 arrangement という言い方が難しいかもしれませんが、同じOALD では「銀行口座」の意味のaccount についても

 an arrangement that sb has with a bank, etc. to keep money there, take some out, etc

と、arrangement を使って説明しています。英和辞典がどれも「資格」と書いているのに比べるとちょっと広い。「用意されたもの」→「仕組み、システム」くらいのとらえ方です。仕組みと考えると、「〜【を】登録する」のは変で、「〜【に】登録する」だろうということになります。

 総合的に考えると「資格としてのアカウント【を】仕組みとしてのアカウント【に】登録する」といえるのかもしれませんね。実際、Google で調べてみるとどちらもたくさん実例があり、どちらとは断定できそうにありません。

 ところが、この話をツイートしたら(最近、知り合いの翻訳者の多くはTwitter やFacebook を積極的に利用しています。この話は次回します)、こんな意見をいただきました。
「今の日本語なら、『アカウントを取得する』などと言うのでは?」

 これを見て「なるほど」と感心するとともに、私は自分がregister という英単語にとらわれすぎていたことに気づき、ちょっと恥じ入りました。英語と日本語は文字面で対応しているわけではなく、それぞれの言語と文化・社会のコンテキストの中で対応しているのだという当たり前の前提を、つい忘れていたからです。

 そして、こういうときに思い出されるのが、あの「おとといおいで」なのです。あの名訳に凝縮された翻訳の難しさと楽しさについて、これから語っていきたいと思います。

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