在宅フリーランスの金融翻訳者、鈴木立哉さん Flavor
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Flavor of the Month
<第126回>  全4ページ
日常生活のなかにスキルアップの工夫を

加賀山 :大学卒業後、大手証券会社にお勤めでしたが、翻訳を仕事にしようと思ったきっかけは何だったのですか?

鈴木 :直接のきっかけは体を壊したことでした。1年ほど休養しようということになったときに、この機会にまえまえからやりたかった翻訳をやってみよう、1年たってだめだったらまた会社員に戻ろう、と考えたのです。
 ただ、もっと根本のところで、昔から英語が好きだったということはあります。大学時代も英語漬けでしたし、就職先も留学制度が充実している会社を選びました。その制度を利用して、コロンビア大学のビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得し、早めに卒業単位をそろえて、あとは経済と関係のないエッセイ・ライティングのクラスに出たりもしました。
 帰国してからも、会社勤めをしながら文芸翻訳の通信添削を受けたりして、翻訳に興味はあったのですが、退職までは踏みきれなかった。そこにいわば機会が訪れたのです。そのころには、翻訳という仕事に、文芸だけでなく実務という分野があることもわかっていました。

加賀山 :そもそも金融のプロですから、そちらに進むのは自然な流れですね。

鈴木 :といっても、当初は金融翻訳をやる気はなくて、おもに証券の引受業務などに関する契約書の翻訳を念頭に置いていました。

加賀山 :その仕事は法律事務所から来るのですか?

鈴木 :いいえ。伝手には頼らず独立しようと決めていたので、自分で最初から調べて、まず翻訳会社との関係を作りました。アメリアなどの紹介サイトにも登録してクライアントを開拓し、契約書や、もちろん金融もできますからそれらの翻訳をしていたら、3年後には金融だけになっていました。金融のレポートはマンスリー、ウィークリーといった定期の仕事ですから、このまえ頼んで、できがよかったからまた頼もうという感じで増えたんですね。

加賀山 :フリーになって1年で仕事が途切れなくなり、1年半でキャッシュフローがプラスになったとうかがいました。その後はずっと順調だったのでしょうか?

鈴木 :そうでもありません。仕事は途切れなくなりましたが、翻訳会社経由の仕事は単価が安い。黒字は維持しながらも、リーマンショックもあって、収入の上下はありました。売上は2007年ごろがピークでしたが、そこからさらに手広くやろうとは思いませんでした。とりあえず生活はできるので、いまは巡航速度7割ぐらいのペースと売上でやっています。

加賀山 :毎日「業務日誌」をつけておられるとか?

鈴木:仕事机の上にノートを広げてあって、何をしたかということをリアルタイムで記入していき、そのあとフェイスブックやツイッターで事実だけを公開します。やりはじめて10年くらいたちますね。文章の訓練にもなりますし、ほかの人たちが読みたいのは、整理された「成功体験」ではなく、むしろ失敗体験や、リアルな体験だと思うので。たとえば、「今日値上げ交渉をしてみた」、「うまくいった」、「うまくいかなかった」、「ミスをして怒られてしまった」とか、ありのままに書いています。固有名詞はもちろん伏せて。

加賀山 :記録を公開するのは、後進やほかの翻訳者のためという思いもあるのですか?

鈴木 :個人的には「翻訳者として成功するには」とか「翻訳がうまくなるには」といった成功者目線のアプローチはあまり好きじゃなくて、きみも僕もいっしょ、きみもがんばり、僕もがんばっているというスタンスが好きなんです。そういう意味で、応援になればと。

加賀山 :毎日のそういう記録にしても、著書1冊になるくらいデータを整理しておられることにしても、すごいですよね。

鈴木 :記録に残しておかないと気がすまない性分なんですね。

加賀山 :何か翻訳の勉強はされましたか?

鈴木 :独立直後に数カ月、実務翻訳の通信講座をいくつか受講しましたが、それ以外に「実務翻訳」を勉強した経験はありません。仕事をこなすことで徐々に力がついたのだと思います(文芸翻訳については後述)。
 とはいえ、翻訳力を維持、強化するため、毎朝仕事に取りかかるまえに30分から1時間ほど、「翻訳ストレッチ」というウォーミングアップをしています。

加賀山 :それはどのようなものですか?

鈴木 :毎日の仕事のまえに、1セット5分ほどの訓練メニューを組み合わせて、全体で30分ほどおこないます。教材は随時入れ替えていますが、たとえば、いまやっているのは、
① 日経新聞のコラム「春秋」と朝日新聞の「天声人語」の音読。
② トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、マイケル・ルイス『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち』(文藝春秋)の原文と訳文を音読、比較する。
③ 中原道喜『誤訳の典型』、『誤訳の構造』、『誤訳の常識』(聖文新社)を学ぶ。

 以上はかならず毎朝やっていて、ときどき追加で、
④ 大岡信『折々のうた』(岩波書店)
⑤ 薬袋善郎『英語リーディングの秘密』、『英語リーディングの真実』(研究社出版)
 を読んだりしています。村井章子さんが訳された『国家は破綻する──金融危機の800年』(日経BP社)は「ストレッチ」の時間で読むのに3年半かかりました。

加賀山 :そんなに長く……。「翻訳ストレッチ」を始めようと思った理由は何ですか?

鈴木 :この仕事をしていると、こういう英文ならこういう訳という「癖」がつきますよね。実務翻訳の場合、むしろその「定型」が求められるという面もありますが、とにかくついてしまった癖を取り除くのが目的です。このほかに、英作文をすることもありますし、5分間だけ原文と訳文を丸暗記するのも効果的です。
 あと、翻訳のノウハウ本というのはつい買ってしまうけれど、なかなか読まないじゃないですか。そこで、このストレッチの時間に、今日はこれというふうに棚から取り出して読んでいます。

加賀山 :癖というご指摘は重要ですね。文芸翻訳でも、近年の傾向として、みんなの訳文が似てきて「定型」にはまっているような気がしています。本来、訳者によってさまざまな文体のちがいがあり、そこが楽しいはずなのですが。

 
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