【アメリア】みんなで作るインタビュー6・小林清志さん紹介編
 
  みんなで作るインタビュー


 [紹介編]
読み物  
『ルパン三世』シリーズの次元大介の声でお馴染みの小林清志さんが今回のお客様です。「どうして声優さんがお客様なの?」とちょっと不思議に思われた方も、紹介編を読めば納得していただけるはず。「特技は英文翻訳」という小林さんに、英語や翻訳に関するお話を、たくさん聞かせていただきました。

第6回 小林清志さん
 
<第6回> 紹介編|インタビュー編 1インタビュー編 2  全3ページ
 
中学時代……ジャパンタイムズを購読する変な中学生!?

 戦後を迎えた中学生の頃、学校で英語の授業がどのように行われていたかは、よく思い出せないという小林さん。にも関わらず「埼玉県加須に疎開していたんですけど、なぜだかジャパンタイムズを定期購読していたんですよね。もちろんスラスラ読めるわけじゃなかったんだけど。今で言うギネス記録のような世界の珍記録がマンガで紹介されていて、それを辞書を引きながら読み解いて楽しんでいたんですよ」。購読に至る経緯などは今では定かではないそうだが、よほど英語に興味があったのだろう。
 こんなエピソードもある。戦後の何もない時代、小林少年の楽しみは町の古本・貸本屋で推理小説を借りてきて読むことだったという。「あるとき、その古本屋さんで英語の本を売り出していたんです。童話集か何かだったな。僕はそれを買ったんです」。単語を辞書で引き、日本語で解釈をしていく過程は「推理小説の謎解きと同じような面白さがあった」という。「それから英語の本を買うようになりました。その古本屋さんの英語の本は、ほとんど僕が買ったようなものですよ(笑)」
 
高校時代……陰では英語の講師?

 東京の小石川高校に進学した小林さんにとって、この頃から英語は“好き”だけでなく“得意”なものになっていく。「当時『Young』という英語学習の雑誌があって、そこに投稿したところ入選し、僕の名前と学校名が掲載されたんです。それを英語担当教師が見つけたらしく『すごいじゃないか』って言われてね。それ以来、英語の点数が良くなりましたよ(笑)」
 それからますます英語が好きになり、勉強するようになった小林さんは、ついに、こんなことまでしてしまった。「受験高校生を対象にした添削会というのがあってね。僕はそこへなぜか入り込んで、講師として赤ペン指導をしていたんです。生徒は講評を書いている者が同じ高校生だなんて夢にも思っていないわけです。僕は『英語っていうのは論理的なものだから、文章がつながらない回答はダメだ。論理的に物事を考えて訳しなさい』なんて偉そうなことを書いちゃったりしてね」。小林さんの英語好きと、破天荒な様がうかがえる面白いエピソードだ。
 
大学時代……英文学の試験前には得意の英語で荒稼ぎ!?

 日大の芸術学部演劇科に入学した小林さん。ここでも得意の英語で一稼ぎしてしまう。「芸術学部の学生は英語があまり得意じゃないんですよね、僕以外」とニヤリと笑う小林さん。英文学の授業で、邦訳が出ていない教材をと考えて教授が選んだのがインド文学。当然、英語が苦手な学生たちは、英文読解に四苦八苦。そこで小林さんは試験範囲を翻訳し、1部50円で学生たちに売り歩いた。もちろん翻訳版は飛ぶように売れた。「その時、販売部長を買って出たのが同級生のたてかべ和也。『ドラえもん』のジャイアンの声をやっているヤツですよ」
 
劇団員時代……舞台の台本を翻訳する

 大学卒業後は劇団に入団。そこで本格的に翻訳に取り組む機会が巡ってくる。「劇団で『ケイン号の叛乱』というアメリカで上演された戯曲をやろうということになったんです。そのためには日本語版の台本を作らなければならない。『小林くん、英語得意なんだからやってよ』って感じですね」。そこで台本の翻訳と俳優として舞台に出演することの両方をこなすことになる。
 「アメリカ海軍が舞台ですから、わからない専門用語なんかもいっぱい出てくるんですよ。でも、今と違ってまわりにネイティブもいないし、どうやって調べようか困ってねぇ」。そこで小林さんが目を付けたのは、いつも行く飲み屋に来ている在日米軍の兵隊とおぼしき人物だった。「店に出かけて行ってそのアメリカ人を見つけて『この Officer of the Day ってのはどういう意味なんですか?』って聞くわけです。でもこれは結局うまくいかなかった。そのアメリカ人は偉そうに講釈してくれたんだけど、その内容はどうも間違いだったみたいでね。実は“当直士官”って訳だってことを後で知りました。彼は多分、海軍関係者ではなかったんでしょうね」。いろいろと苦労を重ねながらも無事翻訳を完了し、上演も成功を収めた。
 
アテレコ時代……アテレコと吹替翻訳の二足のワラジを

 1960年代、当時テレビでは外国映画の吹替版が盛んに放映されていた。「食えない研究生時代だったもので、マネージャーが『清志さん、翻訳ができるんだからアテレコの翻訳やったら? 紹介するよ』って言ってきたんです」。アテレコの翻訳とはつまり今でいう吹替翻訳のこと。さっそく外国映画吹替版制作の草分け的存在である東北新社の社長さんに会いに行くことに。「すると社長さんがいきなり『キミは役者だろう。翻訳もやるのかい? じゃあ、翻訳やって、主役もやっちゃえ』って」。それからしばらくは、吹替翻訳とアテレコの仕事の二足のワラジを履くことに。
「翻訳をやったのは7〜8年ぐらいかなあ。結局、アテレコの仕事が忙しくなっちゃって翻訳の方はやめてしまいました。両方やっていた頃は大変でしたよ。女房とふたりで新宿の六畳一間のアパート暮らしだったんだけど、夜中に仲間が酔っぱらって家に遊びに来るんだよね。でも俺は翻訳の仕事をしなきゃいけない。しょうがないから押し入れの中にスタンドを引き込んで翻訳をしていました」

 さて、英語好きの少年は、俳優を目指しながらも、なんとプロの翻訳家でもあったという。そんな小林さんに、どんどん質問をお寄せください。(※質問の受付は11月7日で終了しています。)
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