『株式会社アスカコーポレーション広報誌 ASCAブレティン 2014 』vol.8(発行:株式会社アスカコーポレーション)
特集:座談会
メディカル翻訳の品質を支える人材と活用 ―市場が求めるリソース
(1)翻訳者への道をサポートする仕組み
翻訳者や翻訳会社など、翻訳という仕事に関わる者はクライアントが求めるニーズに応えていかなければなりません。今回の座談会では、未来の翻訳者を育てる学校や翻訳者のネットワークを運営しておられる株式会社アメリア・ネットワーク(以降、アメリア)代表の室田陽子氏、そしてアメリアをきっかけにフリーランス翻訳者として活躍されている藤田弘美氏をお迎えし、市場(クライアント)が求める翻訳者を育成するために翻訳会社や翻訳学校が何をすべきなのか、その理想像について語っていただきました。

中西氏:アメリアで提供されているサービスについてご紹介いただけますか。
室田:翻訳スキルは弊社が運営している翻訳学校フェロー・アカ デミーで学んでいただき、身につけたスキルを仕事に結びつけるための場所が、会員制翻訳者ネットワークのアメリアです。ウェブサイトと月1回発行の会員向け情報誌「Amelia」で、定例トライアルやさまざまな情報提供を行っています。アメリアには、どなたでもご入会いただけます。
中西氏:定例トライアルはどのようなシステムなのでしょうか。
室田:毎月、色々な分野でトライアルを実施し、「仕事に通用するレベル」を基準に評価しています。ここで優秀な成績を修めると「クラウン会員」として登録されます。具体的には、定例トライアルでAAを取得するか、一年以内にAを2回取得することが条件です。また、フェロー・アカデミーの上級講座で講師の推薦があればクラウン会員の資格を得ることができます。企業から寄せられる求人には、翻訳の実務経験の代わりにクラウン会員であることが条件となっているものも多いので、未経験の方でも応募のチャンスが格段に広がります。藤田さんも、クラウン会員の資格をお持ちですね。
藤田氏:私は以前看護師として国立病院に勤務しており、その経験を活かしてメディカルの翻訳に従事したいと考えていました。しかし英語関係の資格がなかったため、フェロー・アカデミーの通信講座のマスターコースを経てクラウン会員になりました。
犬塚氏:藤田さんのようにしっかりとした経歴がある場合、アピールすることは大切だと思います。優秀な翻訳者でもプロフィールでのアピールが十分でないと、選考過程で見過ごしてしまうことがあります。
中西氏:情報誌「Amelia」でも「新人翻訳者向けの経歴書の書き方ポイント」を特集されていましたね。
室田:翻訳者の方にとって、プロフィールを読む相手が何を知りたがっているのかイメージすることはなかなか難しいようです。そのような情報もアメリアとして発信していきたいと思っています。
犬塚さんもフェロー・アカデミーのご出身で、アメリアを通じてアスカコーポレーション(以降、ASCA)に入社されましたが、翻訳の枠にとどまらないさまざまな活動をされていると伺っています。
犬塚氏:プロジェクトマネージャー(PM)という仕事をしています。最近では、担当しているクライアントである製薬会社のニーズも翻訳だけではなく多岐に渡るようになりました。例えば、私が担当している製薬会社の営業ツール冊子の制作では、翻訳だけでなく、冊子の企画から印刷までを一貫して請け負っています。その領域のトップである医師たちとやりとりする機会が多いため、医学会に参加するなど、常に勉強することが必要です。このように、翻訳+αの業務も積極的に行っています。
中西氏:藤田さんは2度のトライアルを経てASCAの翻訳者として登録されましたね。
藤田氏:そうです。登録前にはヒアリングがあり、興味のある分野 や経験、実績、チャレンジしたい文書などについても把握していただきました。ASCAのトライアルでは、論文、申請文書、医療機 器マニュアル、ニュースリリースや新聞記事などの分野から自分で課題を選択できるため、プロへの意識を高めます。
室田:クライアントから求められるものはさまざまですから、トライアルのジャンルを細かく分けて審査しているというのはいい試みですね。
犬塚氏:いろいろな角度から見て優秀な人材を確保するために、選考の際はまず経歴とトライアル課題の質を拝見しますが、ASCAでは登録前のヒアリングを重要視しています。経歴書や翻訳文からは伺えないプロの翻訳者としての姿勢やあり方について、またメディカルの知識やPCスキル、将来のキャリアについての考え方などについてお聞きしています。また、定期的に翻訳者評価を行って、支払いのレートにも反映するようにしています。
室田:レートと言えば、日本翻訳連盟の総会での講演で、興味深いデータが発表されていましたね。個人翻訳者の収入を上げるために、スピードを上げる方法と単価を上げる方法とを比較検証したところ、単価を上げる方が有効だったという内容でした。
中西氏:クライアントからの要望は、高品質な成果物を低価格で、と当然なことではあるのですが、海外翻訳ベンダーの存在も意識すると競争は熾烈です。私たち翻訳会社は、プロセスの工夫やツールの利用などの企業努力を重ね、何とか翻訳者のレートを上げたいながら、せめて下げないように努力しています。難しいですが、常にWin-Winの関係を意識しています。
藤田氏:翻訳者をただの作業者と思わず、パートナーとして考えてくれる翻訳会社というのはいいですね。
(2)メディカル翻訳に関わる醍醐味
中西氏:藤田さんは、どのような思いでメディカル翻訳に携わっておられますか。
藤田氏:メディカル翻訳は論理的な反面、さまざまな人の想いを感じることがあります。以前に、新生児ICUでの痛みの管理に関するセミナーの翻訳を担当したことがあるのですが、セミナーの終盤、演者の思いが語られる場面では自然と涙が出てきたことがあります。 また、新生児を痛みから解放するために、採尿時に恥骨上部を優しくタッピングしたり、腰背部をマッサージしたりして膀胱を物理的に刺激するというエピソードに医療従事者の愛情を感じました。この2つの原稿はとても印象に残っていて、メディカル翻訳には温かいものを感じます。
犬塚氏:上司から聞いた話で印象的な翻訳案件があります。それは、ある国立大学の方から依頼された実験動物の環境改善に関するレポートの英訳です。英国の動物愛護協会の女性が、その大学で実験動物の劣悪な状況を改善する取り組みを献身的に行っていたそうです。その後、大学の担当者がその女性が帰国後亡くなられたことを知り、その活動を家族に伝え、webに載せたいから英訳してほしいとの依頼だったそうです。私たち翻訳会社にとって冥利に尽きる素晴らしい経験です。
中西氏:メディカル分野の文書には血が流れているように感じます。患者さんを助けるためだと考えると、すべての文書にドラマを感じます。
室田:必ずそこに人の命が関わってくるのが他の分野とは異なるところですね。
犬塚氏:治療法が承認されていない疾患を家族が患った場合、治験であっても治療に参加したい、早く承認してほしいと思うのではないでしょうか。もちろん製薬会社は企業ですから利益の追求をされますが、助からない人たちを助けたいという使命を背負って日々研究開発されているのだと思います。
藤田氏:高度な専門性が求められる仕事ですが、やはり根本は人だと思うことが多いです。決して割のいい仕事ではないかもしれませんが、大きなやりがいがあるからこそ続けてこられたのだと思います。
(3)市場(クライアント)が求める翻訳者を育てる環境をつくる
室田:メディカル翻訳では英訳の需要が高いという印象があります。特に英訳の多いのはどのような文書ですか。
犬塚氏:英訳の翻訳者は絶対的に不足しています。英訳が発生するのは、海外本社への報告、提携会社との情報共有を目的とした治験関連文書、また投稿用としての論文などです。最近ではグローバル化が加速し、日本語を読めない社員や役員のために、さまざまな情報を翻訳するといった案件も増えています。
藤田氏:私は今のところ和訳のみですが、英訳も勉強しようとASCAが主催したASCA Campというイベントに参加しました。ASCAでは翻訳者育成のためにさまざまな試みをされていますね。
中西氏:ASCA Campは英訳に特化した1泊2日の合宿形式のセミナーで、2014年3月に淡路島で開催し、多くの翻訳者やチェッカーにご参加いただきました。治験や論文、文の生成、ライティングなどのさまざまな分野での英訳スキルをアップできるよう、高い専門性を持つ講師が一堂に会し講義いただきました。参加者の9割から、また参加したいと好評をいただきました。ASCAは翻訳学校を持ち合わせていませんが、翻訳会社として現場のニーズを意識した上で、翻訳者を育てるためのさまざまな企画をしています。
犬塚氏:ASCA 日常の業務の中でも、和訳メインの翻訳者の方たちに幅を広げていただくため、英訳の依頼をさせていただくことがあります。品質管理はASCAでしっかりとバックアップする上で、意欲のある方にチャレンジしていただいています。PMは文書の難易度やボリューム、過去の実績を考慮して翻訳者に依頼していますので、案件をこなしていくうちに、特定分野に強い人材へと成長できるはずです。また、ASCAでは1人のPMがクライアントへのサービスから予算管理や工程管理、品質管理も総合的に担当しています。案件を一貫して担当することで、情報を歪めることなくダイレクトに全作業者へ伝えることが可能になります。
室田:具体的にクライアントはどのようなことを翻訳者に求めているのでしょうか。
犬塚氏:先日、クライアントから、「読み手をもっと意識して翻訳してほしい」と指摘を受けました。依頼された文書を誰が何の目的で読むのかをしっかりと確認し、翻訳者にもそれを理解してもらうことが本当に大事だということを改めて学びました。用語などは基本的に間違っていなければクレームにはほとんどなりません。むしろ重要なのは、エンドユーザーに向けた適切な表現で記述することです。例えば、患者向けの治験の同意説明文書はどちらかと言うと平易で柔らかい文面ですが、医師向けに専門的な用語を多用して翻訳してしまうと、大きな誤りとなります。
室田:翻訳学校の課題に置き換えても、先生に向けて翻訳してしまうことが多いようです。それでは現場では通用しないので、読み手が誰かによって全く違なる訳し分けが必要であることを念頭に置かなければいけないですね。
中西氏:翻訳者には、翻訳した原稿を読むことになるエンドユーザーについてもっと知っていただきたいし、翻訳学校でもこのような現場の事情をもっと教えてほしいと思います。例えば製薬会社の工場や病院のツアーをして、実際にクライアントや患者の声を聞くことができれば貴重な経験になるのではないかと思います。
室田:本当に大事なのは単語を機械的に置き換えたり、言い回しに過度にこだわったりすることではなく、その文書を最終的に誰がどう読むかを想像することなのですね。
中西氏:このように翻訳学校や翻訳会社が優秀な翻訳者をサポートしていくための取り組みを追及することは非常に重要です。
(4)市場から求められる翻訳者となるために
中西氏:室田さんからみて、伸びやすい翻訳者の特徴はありますか。
室田:分野を問わず、調べものが好きで探求心のある方は優秀な方が多いようです。藤田さんは翻訳をする際に、どのように情報を調べていますか。
藤田氏:インターネットが中心です。しかしインターネットの情報は玉石混交なので、厚生労働省や学会のサイトなど、信頼性のおけるものを重点的に見るようにしています。いろいろ調べていくうちに最後の1ピースがはまった、と思える感覚が好きです。
中西氏:医学的、薬事行政的にも信頼できるソースから用語を調査することは 常に重要ですね。他に翻訳者にはどのような心構えが必要でしょうか。
犬塚氏:ご自身の翻訳への評価と問題点を把握していただくため、チェッカーやクライアントのチェックを経た原稿をフィードバックしています。翻訳者の中にはフィードバックを好まない方もいて、例えば、今まで一度も文句を言われたことなどない、自分の翻訳に問題はないはずだと言い返されたこともあります。でも、クライアントから来たクレームは脚色せずにストレートに伝えるべきだと思います。言葉をやわらげたせいで意図が間違って伝わるかもしれません。それは、プロである翻訳者に失礼です。そのような思いから、ASCAでは積極的にフィードバックを行っています。
藤田氏:クレームを当たり前のことだと捉えられればいいですが、翻訳者の考えもそれぞれですから。私は自分のミスを知らないままにしておきたくはありませんので、フィードバックをもらえるのはありがたいです。少しきついフィードバックをいただくこともありますが、非常に勉強になります。ただ、たまにはいい点も言ってくれたらもっとモチベーションが上がるかもしれません。
室田:授業であれば、「この翻訳の表現は分かりやすかったね」とほめることができますが、トライアルや実際の仕事となると難しいですね。
犬塚氏:翻訳を専門にしている会社に依頼している以上、クライア ントは高い水準で翻訳文を評価します。厳しく評価されることも仕方ないことです。完全にあきらめている相手にはクレームも言いません。これはクライアントと翻訳会社の関係でも同じですが、何も言わない場合はきっと「次」はありません。翻訳者には、クレームを受けることを成長できる機会と捉えて、厳しいことを言われてもへこたれないタフな精神を身につけてほしいと思います。
室田:さらに、一線で活躍されている翻訳者は、日本翻訳連盟主催の翻訳祭やセミナーなどの機会をとらえて翻訳会社とコンタクトを取っているようです。翻訳者には、藤田さんのように、セミナーや勉強会など機会があるごとに積極的に参加してほしいですね。積極的に外に出て行く翻訳者とそうでない翻訳者とではどんどん差がついていきます。
中西氏:今回は翻訳学校と翻訳会社が一丸となって、クライアントのニーズに応える翻訳者を育てるための戦略について話し合う貴重な機会となりました。この戦略を生かしていくために、翻訳者とは実際に顔を合わせて緊密なコミュニケーションをおこなうことが近道です。どんどん遠慮せずに気軽に声をかけてください。日々品質への要求は高まり、ニーズも多岐にわたりますので、常にお互いが新しい情報を入手し、それを共有できるような関係の構築を目指していきたいと思います。

(2014.09)