 |
坂田:今回のゲスト、富永佐知子さんは、東京芸術大学音楽学部卒業、フラメンコ舞踊の先生など、翻訳と全く違った分野の異色の経歴をおもちだと聞いています。ユニークな話が聞けそうですね。こんにちは。よろしくお願いします。
富永:こんにちは!
坂田:さっそく富永さんと音楽のつながりについてお聞かせ下さい。
富永:はい。高校のころから何となく舞踏団でフラメンコを習っていたりしたんです。もっと遡ると、中学生の頃に『民族音楽体系レコード』を買っちゃったりして。小さい頃からそういうことが好きだったみたいです。でも、音楽関係の大学に入ろうなんていう気は全くなかったんですよ。ピアノは習っていましたが、受験用の練習ではなく、好きな曲ばかり弾いていました。
坂田:それが、どうして芸大を受験することになったのですか?
富永:ひとくちでは説明できないのですが……。まず子どもの頃、『600万ドルの男』や『バイオニック・ジェミー』といったアメリカのサイボーグもののテレビ・ドラマが大好きで、その影響から大学ではバイオニクス・オーガニズム(人工器官)の勉強がしたいと思っていたんです。それで調べてみると、当時バイオニクス・オーガニズムを勉強できる学校はユタ州立大学だけだったんです。「よし、絶対にユタ州立大学に入学するぞ!」と決心した私は、手始めにアメリカの生活を下見しておいたほうがいいだろうと考え、ちょうど募集をしていた交換留学生の試験を受けたんです。これに合格して1年間イリノイ州の高校に行かせてもらえることになりました。
坂田:また、音楽とは全く逆方向の話ですねぇ。それからどうしたのですか?
富永:ところが、いざアメリカの田舎町に行ってみると、音楽家がゴロゴロしているんですよ。教会のオルガニストもいれば、有名ではないけれども自分でレコードを出して音楽を生活の糧にしている人なんかが普通にいるんです。日本だと、「音楽なんかで食べていけるわけないだろう」と言われてしまいますよね。ここから私の転落の一歩が始まりました。「好きな音楽で食べていってもいいんだ」ってね。日本に帰るとさっそく先生に「大学は音楽学部を受験します」って宣言しました。
坂田:その時の先生の反応は?
富永:今からでは間に合わないと、大反対されました。それまではバイオニクスでしたから、当然、理系の選択科目をとっていたんです。音楽大学は受験科目でいうと文系なんですよね。「すみません。ストレートで入れるなんて思っていませんから」って言いながら押し通し、2年間浪人をして芸大に無事(?)合格できたというわけです。
坂田:大学での専攻は?
富永:専攻は音楽理論でした。音楽史や民族音楽学、比較音楽学などを主に学び、副科として器楽の授業もあります。実は私は入学前から卒論のテーマを決めていたんです。小さい頃から民族音楽に興味があったと言いましたが、卒論ではフラメンコ舞踊を取り上げたいと思っていました。ですから、大学の授業以外にフラメンコの踊りや歌を習いました。卒業後はフラメンコダンサーや伴奏ピアニストなどをしながら暮らしていました。
坂田:ここまで、まったく翻訳の話は出てきませんが、翻訳家になろうと思ったのは、いつ頃ですか?
富永:その話をすると暗くなっちゃいますけど、いいですか? 大学を卒業してしばらくして結婚をしました。相手は海軍に所属するアメリカ人でした。ところが3年で離婚。原因は夫の家庭内暴力で、私は耳と足にケガを負ってしまったんです。見ての通り、普通に生活する上では全く支障はないんですよ。でも、音楽や舞踊のプロとしてはやっていけなくなってしまいました。それが30歳の頃です。
坂田:それまで音楽一筋でやってきて、生活を支えているのも音楽だったのに、それが全くできなくなってしまった。それから、どうなさったのですか?
富永:とにかく就職をしなければ。そう思ったのですが、実社会経験はゼロですから就職口がないんです。履歴書を送っても、その段階で不採用。面接さえしてもらえない。これは手に職をつけなければ話にならないぞと。そこで思いついたのが翻訳だったんです。実は、受験のために勉強していた音楽理論のテキストはほとんどが英語で、試験になると7〜8ページにもわたる長文のなかから「下線部を訳しなさい」とか、「この論文の主旨をまとめなさい」といった問題が出されるのです。ですから、英語はかなり勉強してきたという自負がありました。道具として使ってきた英語でしたが、頑張ってきたのだから、今からなんとかものにするのはこれしかないと、そう思ったんです。
坂田:それでフェロー・アカデミーに入学したわけですね。
富永:はい、そうです。1999年にカレッジコース(旧レギュラーコース)に入りました。
坂田:カレッジコースは1年間、毎日授業があるコースですね。いかがでしたか?
富永:厳しかったですね。とにかくカリキュラムが多くて。課題はいっぱいあるし、調べ始めるとキリがないし。授業では、コンピュータでキリキリした後は、血みどろのスプラッターものを訳し、また堅いビジネス文書に戻って、みたいな。その切り替えも大変でした。1年間、とにかく無我夢中で、あっという間に終わったというのが率直な感想です。
坂田:翻訳を1年間勉強して、手応えはありましたか?
富永:そうですねぇ。目指す方向が少しずつ狭まっていきました。まず、コンピュータ関連のものを訳す才能は私にはないなと思いました。小さい頃から本にしろ、テレビにしろ、ノンフィクションやドキュメンタリーが好きだったので、翻訳でも、できればその方面に進みたいと思うようになり、2年目からはその方向でコースを選び、週1回のゼミをいくつか受講しています。それから、最初の1年間で貯金を食いつぶしてしまいましたので働かなければなりません。今はヘッドハンティング会社でフルタイムで働いています。
坂田:でも、最初は履歴書を送っても面接もしてもらえなかったとか。よく就職先が見つかりましたね。
富永:運ですね。珍しく面接に来てくださいという連絡をいただいて、そこに就職することができたんです。ちょうど、1年目のカレッジコースが終わって半年ほどたった頃でした。
坂田:翻訳の勉強を始めて、段々と運が向いてきたといった感じですね。
富永:そうでしょうか。まだまだ先が見えないという意味では、以前と変わっていないんですが……。
坂田:現在、受講中のクラスは平日の昼間ですよね。会社のほうは大丈夫なんですか?
富永:私だけ特別フレックスにさせてもらっています。どうしても通いたかったので、会社にお願いして許していただきました。その代わり、朝早く出勤したり、別のところでカバーしています。
坂田:富永さんの熱意が伝わって、許してもらえたわけですね。トライアルにも頻繁に挑戦なさっているとか。
富永:はい。出版のトライアルでAAをいただき、アメリアの翻訳ノミネーティングシステムに登録していただいているのですが、映像ではまだなんです。でも、最初のうちは悪い成績をもらってショックを受けたこともありました。
※文中の「ノミネ会員」は現在の「クラウン会員」のことです。
|
|