アメリア会員インタビュー

岩瀬 徳子さん

第134回

こだわりがものを言う文芸翻訳の世界へ岩瀬 徳子さん

Noriko Iwase

『アイリーンはもういない』

加賀山今日は文芸翻訳でご活躍の岩瀬徳子(いわせ のりこ)さんに来ていただきました。さっそくですが、出たばかりの訳書『アイリーンはもういない』(早川書房)についてうかがいます。これはミステリーですか?

岩瀬文芸スリラーですね。ニューイングランドの極寒の町で不遇な生活を送る24歳の女性が故郷から姿を消すまでの1週間を描いた物語です。
 なぜ故郷を出ることになったのかという謎をめぐり、後半はサスペンスフルな展開になりますが、いちばんの読みどころは主人公のアイリーンの性格描写です。内気ながら怒りと不満を抱えた女性の姿が、ここまで書くかというほど赤裸々に容赦なく描かれます。グロテスクと言ってもいいくらいかもしれません。
 とはいえ、自分にも多少こういう部分はあると誰しも思うんじゃないでしょうか。アイリーンをどう受けとめるかで好き嫌いが分かれるかもしれませんが、とにかく読み手の心をざわつかせる物語です。私自身は訳していてけっこう身につまされました。

加賀山作者はボストン生まれなんですね。変わった名前(オテッサ・モシュフェグ)だから、どこの国の人だろうと思いました。

岩瀬 :両親がそれぞれイランとクロアチアの出身で、アメリカに移住したのです。作品の背景には、移民の家庭で作者自身がアメリカ社会になじめなかったということもあるようです。

加賀山 :この本は訳すのにどれくらいかかりました?

岩瀬4カ月ほどいただいていたのですが、別の仕事もあったので2カ月半くらいで仕上げました。

加賀山 :それは早い。

岩瀬原書が260ページほどで、それほど長くありませんから。ただ、過去に訳していた作品とはちがって、表現が独特で苦労しました。物語の展開があればどんどん訳せるのですが、そういう感じではなかったので。

加賀山 :「わたし語り」のような感じでしょうか?

岩瀬そうですね。翻訳ミステリー大賞シンジケートのサイトで、書評家の杉江松恋さんが1月のベストに選んでくださったのですが、そこで「肖像小説」という言葉を使われているんです。ああ、そういう呼び方があるのかと思いました。

加賀山 :これはご自身で翻訳の企画を出版社に持ちこまれたんですか?

岩瀬 :いいえ、この出版社では、2〜3年前に下訳(下準備の翻訳)者として仕事をさせていただいたことがあって、去年、翻訳ミステリー大賞の授賞式に参加したときに会場で編集のかたにご挨拶をしたのが縁で、今回のお話をいただきました。

加賀山 :私もシンジケートの事務局のひとりなんですが、授賞式が仕事に結びついたというのはうれしいですね。

岩瀬初めて参加してみたのですが、こういう場があるのはありがたいことだなと思います。翻訳ミステリーのお祭りとして純粋に楽しいですし。

加賀山 :この本はリーディング(出版社が翻訳書として出すかどうかを検討するために、訳者に原書を読んでもらう仕事)もされたのですか?

岩瀬いいえ、最初から訳してくださいという依頼でした。

加賀山 :いままで日本で紹介されたことのない作家ですから、多くの場合、翻訳を依頼されるまえにリーディングがあると思うんですが。

岩瀬すでにPEN/ヘミングウェイ賞をとったり、ブッカー賞などいくつかの賞の候補になったりしていたからかもしれませんね。

加賀山 :これまでにハーレクインのロマンス小説もたくさん訳されています。今回、ハーレクインとのちがいなど感じられましたか?

岩瀬だいぶちがいました。ロマンスの場合は読みやすさが大切なので、ある程度、まわりくどい表現などを言い換えたりするのですが、今回は1文1文とじっくり向き合わなくてはならなかったですし、とくに前半はストーリーらしいストーリーがなく淡々と日常の描写が続くむずかしさもありました。でも、仕事として小説をたくさん訳してきたことはとても役に立ったと思います。

加賀山ハーレクインは何冊ぐらい訳されました?

岩瀬2014年にアメリアのスペシャル・トライアルに合格してから、12、3冊ですね。原稿を提出してまだ本になっていないものや、短篇の仕事もあります。

加賀山ということは、年に3、4冊ですか。けっこう速いペースですね。

岩瀬シリーズものは原書が200ページ足らずなので、3カ月で1冊、コンスタントに訳せば1年に4冊になりますね。最近は文庫の長いものも訳しているので、そこまではいきません。

加賀山ハーレクインがデビュー作だったのですか?

岩瀬2005年ごろ、ある翻訳コンテストで佳作になりまして、その副賞として訳した短篇が本になったことがあります。その後、ハーレクインのトライアルに挑戦しましたが、1回目は受からず、2014年の2回目の挑戦で合格しました。

翻訳との出会い

加賀山文芸作品や英語とのかかわりは昔からあったのですか?

岩瀬昔から本は好きでした。小学校、中学校と図書室の本を読みあさっていましたが、英語はどちらかというと苦手でした。大学受験で初めてがんばった感じです。
 ところが、大学卒業後にSE(システム・エンジニア)として働きはじめたあとで、英会話の学校に通ったら、それが楽しかったんです。

加賀山英会話を習おうというのは、将来役に立つと思ったからですか?

岩瀬いいえ。海外旅行が好きで、毎年行っていたのですが、ある年に一人旅をしたときに、言われることはわかるのに、言いたいことをうまく伝えられないもどかしさを痛感して、勉強しようと思い立ちました。とにかく話すのが苦手だったので、かなり下のクラスからはじめることになったのですが、どんどんクラスが上がっていくのが楽しくて。社会人になるとそういう達成感を味わうことって、あまりないじゃないですか(笑)。

加賀山たしかにそうですね。SEということは、理系ですか? プロフィールには、UNIXを使った設計・開発担当とあります。

岩瀬いいえ、その求職は理系限定ではありませんでした。私は文系で、大学では心理学を学びました。卒論では、社会心理学の分野で、同じ広告を何回見るといちばん好意度が上がるか、といった実験をしました。
 そのSEの仕事は、担当していたシステムが廃止されることになり、あまりに業務がきつくなっていたこともあって辞めました。そこでどうしようかなと考えて、フェロー・アカデミーに来てみたのが翻訳との出会いでした。

加賀山最初は何を学ばれました?

岩瀬最初は、出版、実務、映像をひととおり学べるコースを受講しました。文芸作品を訳したかったのですが、将来の生活のことも考えて、実務も視野に入れながらの勉強でした。

加賀山実際に実務翻訳の仕事もされたのですか?

岩瀬 はい。フェローのクラスを修了したあと、しばらく派遣社員として外資系の企業で営業事務をし、そのあと、アメリアで募集されていた翻訳会社のオンサイトの仕事に移って、2年ほどチェッカーの仕事をしました。その後は在宅でIT系の実務翻訳者として働きはじめました。
 そのあいだもずっとフェローで文芸翻訳の講座に通っていました。

加賀山勉強はずっと続けていたのですね。どなたに習いましたか?

岩瀬1年間、柿沼瑛子先生のもとでミステリーを学んだあと、越前敏弥先生のクラスに入って、ゼミに進みました。

加賀山文芸の仕事はどのようにして本格的に始まりましたか?

岩瀬下訳はいろいろさせていただいていましたが、ハーレクインの仕事をするようになったのが始まりですね。先生の紹介で出版社の下訳やリーディングも経験しました。

デビューのために実践したこと

加賀山文芸も含めて出版翻訳の環境はなかなか厳しくなっています。デビューするコツのようなものはあるのでしょうか。

岩瀬結局「ご縁」という部分はあるのですが、私は勉強会などに積極的に参加していました。とくに営業的な売りこみはしなくても、いろいろな先生に習って、自分なりの翻訳の軸を作ることができますし、勉強熱心な人が集まっているので、そういうかたたちのデビューも刺激になりました。

加賀山フェローの授業以外にも、いろいろ参加しているのですね。

岩瀬宮脇孝雄先生の勉強会や、芹澤恵先生の勉強会にも参加したことがあります。翻訳学校以外にも、有志でやっている会がけっこうあるんです。行けば参加者からまた別の会を紹介されたりして、関係が広がります。

加賀山そういう関係からデビューのきっかけがつかめることもありそうです。

岩瀬そうですね。あと、出版社や翻訳者が下訳者を探しているという情報がまわることもあります。すでに仕事をしているかたの話を聞くこともできますし、情報収集の場としてもとても役に立つと思います。

加賀山翻訳の勉強のために、意識的にしたことはありますか?

岩瀬時間があった最初のころには、アメリアの定例トライアルに毎月何かしら応募していました。過去問も片っ端から訳しました。1年以内にAの評価を2回得ると、経験がなくても仕事に応募できるようになるので、まずはそれをめざしました。
 また、オンラインで定例トライアルの訳文をお互い批評し合う勉強会がありまして、掲示板で見かけて申しこんだところ、とても勉強になりました。ふつうは課題を提出したあと3カ月ほどたってから評価がわかるんですが、その会では締め切り直後に訳文を見せ合うので、記憶が鮮明なうちに、まちがったところなどを学ぶことができました。いまは時間がないので、なかなかそういうことに手がまわりませんが。

加賀山そうやって勉強するうちに、どこかの段階で、「自分はうまくなったかもしれない」と思ったことはありましたか?

岩瀬ある長篇の下訳をしたときに、ちょっと手応えを感じたことがありました。最後の見直しをしていたときに、もう何度も読んでいる文章なのに「これ、おもしろい」と思ったんです。そんなことは初めてで、先生にもめずらしく評価していただけました。
 もちろん作品自体の力もあると思うのですが、それ以来、自分で読み返しても引きこまれる訳文をめざしています。

加賀山たしかに、自分で読んでおもしろいぐらいじゃないといけませんよね。

岩瀬むずかしいんですけどね。そういうときはうまくいったと考えていいんだ、と自分の感覚に自信を持てる経験になりました。何かをやったから変わったという意識はありませんが、結果的に変わったと思った瞬間があったということですね。

加賀山いろいろな先生に習われて、どうでしたか?

岩瀬古めのミステリーや怪談もの、現代の文芸作品、エンターテインメントと、さまざまな文章を訳す機会が持てたことはためになりました。知識を背景にした正確さとか、日本語としての表現とか、各先生のこだわりのポイントがそれぞれちがっていて、そういうことも勉強になりましたね。共通する芯のようなものはもちろんありますが、絶対にこうしなくてはいけないという決まりはないんだと感じられたのが大きかったです。

加賀山岩瀬さんご自身の「こだわり」は何でしょうか。

岩瀬そうですね。映像が目に浮かぶような、読み手を引きこむ文章を作ることでしょうか。そしてそれを踏まえつつ、読者、作者、編集者のみなさんに信頼される訳者になれたらいいなと思います。

加賀山今後取り組みたい分野や作品はありますか?

岩瀬自分が普段好んで読んでいる、人間を深く描いたミステリーや、緊迫感あふれる心理サスペンスを訳してみたいです。それから、シニカルなユーモアものや幻想的な物語などもいつか挑戦できたらいいなと思います。

本を読むこと(と折り紙?)

加賀山これから文芸を訳したいかたにアドバイスをいただけませんか?

岩瀬月並みですが、訳したい分野の本をたくさん読むことですね。たとえばロマンスでも、訳文を読めば、ふだんロマンスを読む人かどうかというのはわかります。

加賀山本格的に翻訳の仕事を始めると、読書の時間が減りませんか?

岩瀬減りますね。でも、読むべきだと思う本、話題の本は、時間を作って読むようにしています。

加賀山仕事以外ではどんな本を読みますか?

岩瀬ミステリー、ファンタジーが多いでしょうか。ロバート・ゴダードとか、アン・ペリーも好きです。
 高校時代には『指輪物語』に夢中になりました。図書室に赤い布張りの立派な本があったんですが、6冊目の最終巻だけいつまでも返ってこなくて。どうしても読みたかったので、自分で文庫版を買ったのを覚えています。当時の旧版の文庫は字がものすごく小さくて、読むのが大変でした。

加賀山それは高校時代ですか? そんな分厚い小説を読もうと思うのは、やはり文芸向きなのかなと思いますね。海外作品に目覚めたのは、どういう本でしたか?

岩瀬『大草原の小さな家』ですかね。『赤毛のアン』かな。小学校のころ、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を誕生日プレゼントに親からもらったことがあるんです。そんな本をもらうくらいですから、海外ものをすでにいろいろ読んでいたんでしょう、あまりよく覚えていないんですけど。
 日本の小説も読みますが、知人と同じ名前が出てくると、その人の顔が浮かんだりするので、そういう生々しいイメージが湧かない、身のまわりとは離れた世界に浸れる話が好みなのかもしれません。中学校のころは、栗本薫さんのグイン・サーガをよく読みました。独自の世界観がある大河小説的なものが好きなんでしょうね。

加賀山やはり小さいころから長いものを読める力があったんですね。ほかにアドバイスはないでしょうか?

岩瀬なんでも体験しておくことだと思います。会社勤めでも、アルバイトでも、何かのスポーツでも、趣味でも。ちょっとでもかじったことがあると、原文の理解がかなりちがうと思うので。いろいろなことにチャレンジしておくといいですね。

加賀山本当にそうですね。ふだん、息抜きには何をされていますか?

岩瀬最近は映画もドラマも見ないし……折り紙でバラを折るとか。

加賀山折り紙?

岩瀬立体的なバラです。一枚の紙からはさみも糊も使わずに折れると知って興味を持ちました。折っているあいだは無心になれていいですよ。完成したものを人にあげることもあります。

加賀山(携帯電話の画面で見せていただく)これはすごい。本格的ですね。でも肩が凝りそう。

岩瀬いや、慣れればテレビを見ながらでも折れます。折り上がったときの感動がありますよ。

加賀山これは決まった折り方があるのですか?

岩瀬私がよく折るのは、川崎敏和さんという数学者のかたが考案された「薔薇」です。本に折り図が載っていますが、平面からでは読み解くのがむずかしいので、ネットの動画を参考にしてようやく折れるようになりました。
 折り紙を折っている動画自体も、見ているとけっこう癒されます。指使いとか、人によってちがっているので、なるほどこうすれば折りやすいのかと気づいたり。できあがったものも、折った人によって雰囲気がちがうのがおもしろいんです。

加賀山へえー、そういう世界があるんですね。

岩瀬同じものでも人によってちがいが出るのは、翻訳と同じかもしれません(笑)。

■折り紙の話はまだまだ続くのですが、このへんで。「凝り性」とご本人はおっしゃっていましたが、それが地道な勉強とともに、文芸作品の翻訳に活かされている気がします。これからもどんどんおもしろい作品を訳してください。
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