【アメリア】対談の部屋2-2達人の修行時代
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対談の部屋
<第2回>   全5ページ

第2回 翻訳マエストロ 水上龍郎 vs. 翻訳探求家 吉本秀人
2.達人の修行時代−達人も「赤」を入れられた!

● 実務翻訳の世界へ−赤字の千本ノック


吉本:確か、先生が最初に就職されたのは通信社でしたね。

水上:そうです。就職試験は、国際情勢に関する英語論文の和訳400ワードほどと、テレビ技術に関する解説の和文600字くらいの英訳でした。テレビなんて当時はなじみのないもので、よくわからない。それを英語にしろというのも無理な話なんですが、穴ぼこだらけの答案を書いても、40人中2人の合格者になんとか加えてもらいました。

吉本:先生が穴ぼこだらけの英訳を提出されたという話を聞くとなんだかうれしくなりますね。通信社では最初から翻訳のお仕事をされたわけですか。

水上:海外部の職員という肩書きなんですが、ASIAN TRADEとELECTROという2種類の英文月間雑誌の翻訳を任されたんです。通産省の役人や総合商社、大手メーカーの部長クラスが書いた文章を英語にする作業ですが、内容は、貿易関係のものと技術関係のものが半々くらいで、まあ、業界誌的な性格の雑誌でしたね。毎月4百字詰め原稿用紙で200枚ぐらいの和文原稿を私を含めて日本人3人で翻訳するんです。

室田:英訳のネイティブ・チェッカーはいたんですか。

水上:そこでは、ありがたいことにアメリカ人が3人いたんですよ。この人たちがチェックしてくれた。

吉本:社内でアメリカ人のチェッカーがすぐに赤字を入れて直してくれる、素晴らしい環境ですね。

水上:でも、そのときはそんなこと考える余裕はなくて、最初はあんまり真っ赤になるから首になるのが怖かったくらい。ところがこの赤字がみるみる少なくなるんですよ。それですっかりうれしくなっちゃったんですが、妙なことにハーバードを出た優
秀な部長の訳した英文に比べても私の英文に入る赤字が少ないんです。

室田:先生の翻訳がみるみる上達して、上司の方の訳文よりも優れていたということでは?

水上:いやいや。原文とつき合わせてみると、そのエッセンスを正しく写し取っているとはいいがたいんです。チェッカーのアメリカ人は日本語がよくわからないからそれを知らない。

吉本:なるほど。英文としては正しいから直せないけれど、「等価翻訳」になっていないわけですね。それは一番困ったものかもしれない。誰もチェックする人がいない状況・・・。

水上:今思えばそうなんです。でも助かったのは、あるときその部長に酒を飲みながら注意してもらったんですよ。チェッカーに見せるための英文を書くな。とにかく原文重視で、その内容を英語に反映することだけを考えろ。むしろ、思う存分赤字を入れてくれと要求するような姿勢が必要だと。本当にその通りだと納得して助言に従ったら、とたんにどんどんアメリカ人から赤字が入るようになって。

吉本:チェックから逃げないでチェックに向かっていく姿勢ですね。なにか野球の千本ノックを思わせるような。

水上:まさに徒弟時代の修行の始まりで、一種のカタルシスを感じましたね。貴重な経験です。


● 独立への道−社内にいながら「フリーランス」

室田:そのころは社内の翻訳だけをやられていたんですか。

水上:いや、外部からの翻訳依頼もかなりあって、上司に理解があったんでどんどんやらせてもらいました。変わったところでは、商社経由で入ってきたテレビ番組のナレーション翻訳というのがありましたね。フルシチョフ大統領がテキサスを訪れたときのドキュメンタリーで、スクリプトがないので音声だけ聞いて翻訳して。老人の農夫の話などはアメリカ人に聞かせてもわからないから、申し訳ないような出来のまま納品したわけです。

吉本:出来上がった作品を見ることができたんですか。

水上:当時はまだ一般家庭にテレビがなかったんで、いきつけのバーにあったテレビで見せてもらいました。そうしたら、有名な俳優さんたちが実に自然な口調で私の訳文を吹き替えているんですよ。これには、すっかり驚かされましたね。

吉本:先生に映像翻訳のご経験があるとは知りませんでした。

水上:いや、これ一回だけ。どうも素質的に無理があると判断しました。正解だったんじゃないでしょうか。

室田:残念ですね。また、やっていただきたいです。

水上:あと、日本初の国産旅客機として開発されたYS−11という飛行機がありますが。

吉本:去年、NHKの「プロジェクトX」でもやって話題になりましたね。大変な開発プロジェクトで。

水上:あれのドキュメントを英文化するチームに入れてもらったことがあります。

吉本:当時、航空関係の辞書はあったんですか。

水上:航空自衛隊の用語集を見ながら、構造を理解しながら丹念に英訳していくわけです。

吉本:クライアントと直接の関係ですから、分からないところは徹底的に教えてもらえるでしょう。

水上:専門家にはずいぶん叱られましたけど、これもまたいい勉強になりましたね。テクニカルライティングの基礎はこの頃に培われた部分が大きいと思います。しかし、クライアント側に理解がないこともあったな。ある製薬会社から臨床レポートの英訳を頼まれたときは日程的にきつくて、会社に許してもらって4日間旅館に泊まってやった。

室田:いわゆる「缶詰」ですね。

水上:そこではもう最高の翻訳技術を駆使して徹夜作業でどんどん訳したんですが、相手の担当者が生半可に英語をかじっていて、訳すそばからおかしなケチをつけるんですよ。無生物主語の簡潔な表現がわからなから、これで書かれた英文をすべて書き直せという。この理不尽な難癖に結局は渋々従った、これは苦い思い出です。

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