【アメリア】対談の部屋2-3翻訳会社の設立
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対談の部屋
<第2回>   全5ページ

第2回 翻訳マエストロ 水上龍郎 vs. 翻訳探求家 吉本秀人
3.翻訳会社の設立−翻訳業界の誕生秘話、あれこれ

● 独立の頃−総合商社からの受注

室田:吉本先生が独立された頃の翻訳業界はどのような状況だったんでしょう。

吉本:僕が会社を辞めて翻訳事務所を開業した1980年代の半ば頃は、ちょうど円高不況からバブルに向かう時期で、たいして力がなくても仕事が山ほどあったんです。それで、あちこちの翻訳会社にハッタリをきかせた自己PRのDMを出してトライアルを受けさせてもらいました。合格したところから仕事を受注して。

室田:翻訳会社の名前はどうやって調べたんですか。

吉本:「工業英語」とか「翻訳事典」といった雑誌に載っていましたね、たくさん。でも、そういう雑誌を読むまでそんなに翻訳会社があるとは知らなかった。で、どうやら翻訳業界というものもあって翻訳連盟なんて団体まであるらしいから、これは入っておこうと思ったわけです。

室田:水上先生が独立された頃に今のような翻訳会社はありましたか。

水上:どうでしょう。まだ当時は翻訳が事業としてしっかりと確立されていなかったんじゃないでしょうか。

吉本:それまではアルバイトのような人たちに翻訳をやらせるメーカーも多かったと聞きました。当然、現在のような実務翻訳業界も存在していなかったわけですね。そんな中で水上先生が翻訳会社を設立された経緯をお聞かせいただきたいのですが。

水上:東京オリンピックの頃にはトランジスタ・ラジオの輸出景気も一段落して、私のいた通信社も会社の規模を縮小することになりました。今でいうリストラで、それを機に私は社長と相談して翻訳事業での独立を決めたわけです。手動タイプライター1台と、英和、和英の大辞典をそれぞれ1冊、そして何冊かの専門用語辞典だけで店開きしました。

室田:いきなり株式会社ですか。

水上:いや、もともと一人だけでことを進めるmisanthrope的傾向は避けたい方なんですが、1964年に「日本テクニカルサービス」という名前を掲げて翻訳を請負うようになった当初は、個人事業です。有限会社でもありません。

吉本:僕が独立した頃と違って翻訳の受発注システムが確立されていない時代ですから、営業段階から苦労されたんじゃないでしょうか。

水上:苦労といいますか、元の会社の同僚たちに協力してもらって1千部のパンフレットを作ったのはいいけれど、見込み客へDMを送ろうとしても各企業の担当部署が分からない。そこで眼をつけたのがいわゆる「ラーメンからロケットまで」の総合商社です。ここなら一つのビルの中にあらゆる品目を扱う会社が100も入っているに等しいと考えた。幸い、以前の会社にいたとき4大商社のひとつに出入りしていたんで、その会社の全社的な通達事項を扱う通信課という部署に話をしてトライアルを受けさせてもらったわけです。それで、幸い合格しました。

吉本:それからは、仕事がどんどん来たんですか。

水上: いやもう、ぜいたくな話ですが、発注が多すぎてひとりでは追いつかない。翻訳の分野も広がったので、他の翻訳者の応援を頼むうち、「そろそろ株式会社に・・・」ということになったように思います。

吉本:それで1965年に誕生したのが、「日本テック」ですね。

水上:一応私が代表取締役で、社外取締役2名、監査役1名、営業1名、社内翻訳者が
私以外に2名、経理1名、デザイナー1名という陣容で旗揚げしました。


● 株式会社の誕生−神田税務署のサンプル企業

吉本:まだ先生が30代の半ばの頃ですね。その年で株式会社の看板を掲げて社員の生活を背負うわけですから、大変だ。お金の話で恐縮ですが、当時の給与水準や翻訳料金などについてお聞かせいただけますか。

水上:会社を作った当初は、やっぱり営業担当者にたくさん給料をあげて、仕事をたくさんとってもらおうと思ったんですね。私が4万円の給料だった頃に私より年上の営業担当者の給料が5万5千円。大学出の初任給が1万数千円の頃でした。

室田:前の会社にいらした頃と比べて先生の収入は増えましたか。

水上:前の会社で翻訳と編集をやっていた頃も比較的給料は高くて2万5千円くらい。だから結構増えた格好になりますね。翻訳料金は英訳で千5百円から2千円くらいじゃないかな。設立当初は、管轄の「鬼より怖い」といわれた神田税務署に、うちの会社をサンプル企業として当時珍しかった翻訳会社の実態を把握したいといわれました。税務署としては個人プレイの翻訳をなぜ組織にするのかというところからして不思議だったようです。

室田:先生の独立当初はまず順風満帆という感じですが。

水上:高給取りの営業担当者が突然辞めて別の翻訳会社を作ったときには、ずいぶん言葉には尽くせない大変な思いもしましたよ。でも、これをなんとか切り抜けてからは大手メーカーへの参入も進んで、1968年頃には社員の数も20名近くに増えていました。

吉本:1960年代から70年代はまだ「ドキュメントは製品の添え物」的な捉え方がメーカー側にあったように聞いていますが。

水上:最初の頃は納品してもほとんど何も言われなかったんですよ。こちらが気にして確認するとかえってうるさがられた。

吉本:後年、水上先生が「工業英語入門」に当時クライアントだった大手メーカーの翻訳に対する無理解についてお書きになったら、日本テックは出入り禁止になったんですよね。

水上:若気の至りというか、こちらも節を曲げられない。筋を通したら、結局そういうことになりました。

吉本: ドキュメントが製品の重要な一部とみなされるようになってから、クライアントの翻訳に対する理解も高まったわけですが、当然それだけ注文も多くなったわけでしょう。

水上:だんだん訂正などの要求が増えましたね。ずいぶんうるさくなっちゃった。翻訳業界にとっては、いいことですが。

吉本:「工業英語入門」には、出版元であるインタープレスの社長だった「工業英語」編集長の藤岡啓介さんが序文をお書きになっていて、水上先生の「絶望的なまでに忙しい」超人的日常に触れておられますね。「翻訳者」、「経営者」、そして「遊び人」としての忙しさ・・・。先生が「工業英語入門」を「書こうと思っている」といわれてから完成するまでに3年半かかったとも。睡眠時間はどのくらいだったんですか。

水上:独立当時は、最高で4時間。私は、どこでも寝られるんですよ。電車に乗ればカバンで身体を支えて眠る。寝方も、だんだんコツがつかめてくるんです。

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