田村 加代さん
オーストラリアで出版翻訳
プロフィール
幼少期は石井桃子さんの翻訳に親しんだ昭和世代。絵本や児童文学に描かれた世界を通してかいま見た外国と、7カ月通ったロンドンの小学校の思い出が、「異文化」への関心につながった(と思われる)。高校時代のオーストラリア留学で、「誰もが外国に友だちがいる(≒戦争のない)世界の実現に向けた仕事がしたい!」との思いを抱き、回り道を経て50代半ばで翻訳にたどり着く。出版翻訳、ボランティア翻訳を通じて、言語・文化を越えた人のつながりを広げたいと考えている。現在、西オーストラリア州のパース在住。これまであと回しにしていたアート作りの時間も確保しようと思いたち、今年から地元のアート教室に通い始め、余り布や端切れを使って作るサステナブルな「テキスタイルアート」に挑戦中。
アメリアのトライアルがきっかけで翻訳者デビュー
加賀山 :今日はオーストラリアの西海岸の都市パースで出版翻訳をされている、田村加代(たむら かよ)さんにお話をうかがいます。オーストラリアについてはあとでうかがうことにして、まずお仕事ですが、最初に訳されたのは2019年に出版された『ボーダー 二つの世界』(ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト著、共訳、早川書房)に収録の短編でしょうか?
田村 :はい。スウェーデンのホラー作家による短篇集で、表題作は映画化もされました。そのなかで、11ページ程度の短い作品「紙の壁」の翻訳を担当しました。映画公開に間に合わせるために、未経験の私にも声をかけてくださったようです。
加賀山 :「紙の壁」はどのようなお話ですか?
田村 :9歳の少年の視点で展開します。少年の名前は作者と同じ「ヨン」で、スウェーデンの自然豊かな環境で父親と二人暮らしです。ある日父親が、大きな、空(から)の段ボール箱をヨンへのおみやげに持ち帰ります。ヨンは箱を庭に置いて中に入って遊ぶうちに、近くの森に運んで一晩過ごしてみたくなります。自然の中で空想の世界に浸って遊んだ少年時代が、作者の創作活動の原点だろうか、と思いめぐらしながら取り組みました。優しさと切なさが漂う作品で、私が抱いていた「ホラー」のイメージとは全く異なりました。
加賀山 :この翻訳の仕事はどうやって入ってきたのですか?
田村 :アメリアでの応募がきっかけでした。当時は入会したてで、内部の定例トライアルとのちがいもあまり認識せずに、外部のトライアルに応募しました(笑)。そのトライアル自体は不合格だったのですが、後日この件について直接連絡をいただいたんです。
加賀山 :『ELEVATE 自分を高める4つの力の磨き方』(ロバート・グレイザー著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)というビジネス書も訳されています。これは自己啓発本ですか?
田村 :はい。著者はアメリカでマーケティング会社を起業し、優良な中小企業に与えられる賞も受賞された方です。この本は、誰もが能力を最大限発揮するようになるための実践ステップを、「精神」「知性」「身体」「感情」の4つの領域に分けて解説しています。といっても難しい話ではなく、自分のキャパシティを広げる最初のステップは、例えば「いつもと違う料理を注文する」とか「起床時刻を15分早める」などシンプルです。3人のお子さんがおられるので子育てに関するエピソードも登場します。
加賀山 :この話もアメリア経由でしたか?
田村 :いいえ。フェロー・アカデミーとは別の通信講座を受けたことがありまして、その特典で、ある翻訳会社に登録することができました。そこであったオーディションに合格して、翻訳することになりました。
加賀山 :これが2021年の出版で、次に訳されたのは『FRIDAY FORWARD あなたの可能性を引き出す52のヒント』(ロバート・グレイザー著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本ですね。
田村 :『ELEVATE 自分を高める4つの力の磨き方』と同じ著者が、社員に応援の気持ちを込めて毎週金曜に送信するニュースメール1年分をまとめたものです。心温まるエピソードや「なるほど」と目からウロコの話などで、受け取った社員が家族や友人に転送(フォワード)したことから、この題名がついたそうです。
こちらは同じ翻訳会社経由で、出版社からお話をいただきました。その後、『Coaching A to Z 未来を変えるコーチング』(ヘスン・ムーン著、伊藤守監修、ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本も訳しました。
加賀山 :コーチングの本はいろいろあると思いますが、本書ならではの特徴はありますか?
田村 :コーチングという分野にそれまで馴染みがなかったので、比べるのは難しいのですが、この本の特徴は、AからZまで26個の日常的に使う単語(Aはalready、Bはbecoming)を順に取り上げて、対話にどう取り入れると相手をポジティブな方向に導けるか、著者の実際のコーチングや家族とのやりとりの場面を例にあげて紹介していることです。悩みや迷いを持つ相手が自分のポジティブな資質に気づいて未来像を描き始めるよう、そっと背中を押す「良い聴き手になるためのヒント集」といえるかもしれません。著者の幼少期から最近までの家族とのエピソードがエッセイ風に書かれていて、読みながらほっこりする本です。
加賀山 :同じ出版社から連続して仕事が来ていますね。信頼されている証でしょう。いま翻訳されている本はありますか?
田村 :ありません。現在はアメリア経由のボランティア案件に取り組んでいます。プラン・インターナショナルというNPO(非営利組織)からの依頼で、日本人のスポンサーとアフリカや南米、アジアの子どもとの文通の翻訳を不定期でおこなっています。
加賀山 :いままでのお仕事でとくに印象に残っているものはありますか?
田村 :まだ実績が少ないので、すべて印象に残っています(笑)。最初に訳した短篇では、恥ずかしながらWordの機能もうまく使いこなせておらず、編集の方に迷惑をおかけしてしまいました。思い出すだけでも冷や汗が出ます。
加賀山 :そのあとディスカヴァー・トゥエンティワン社の仕事をするころには、進化されていたのですね(笑)。
田村 :『ELEVATE 自分を高める4つの力の磨き方』を訳したときには、コーディネーターの方が最初から最後まで丁寧にガイドしてくださったおかげで、安心して訳出に集中できましたし、その過程でWordのさまざまな操作もマスターできました。辛抱強く見ていただいたことに感謝しています。
オーストラリアに魅了されて
加賀山 :いままではビジネス書をメインで訳されてきましたが、今後訳したい分野などはありますか?
田村 :じつは、翻訳に関心を持ったのは児童文学でした。うちの子どもが小学生のころです。オーストラリアの学校図書館で返却ずみの本をもとの棚に戻すお手伝いをしていたのですが、それが意外と楽しくて、人気の本がわかったり、気になる本はその場で開いてみたりしました。保護者ボランティアは本を借りることもできたので、興味のある本を借りて、子どもといっしょに読んだりもしました。
オーストラリアの作家の本には、多文化社会や民族対立などのテーマを子ども向けにわかりすく表現したものが数多くあります。そうした作品を日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。気に入った本があると、邦訳の有無を調べてみましたが、ないことがほとんどでした。邦訳がないなら自分で訳したいと思い、約10年後に翻訳を本格的に学びはじめるきっかけになりました。ですので、いまの夢は子ども向けの本を訳すことです。
加賀山 :初期の思いに立ち返って、ということですね。それと関連して、経歴についてうかがいます。オーストラリアと縁が深いようですが、昔からお好きだったのですか?
幼いころの愛読書。いま改めて原書と読み比べ、翻訳の奥深さを実感。
田村 :高校時代、シドニーがあるニューサウスウェールズ州の酪農地帯に1年間留学しました。小さいときに大好きだった『大草原の小さな家』を地でいくような生活ができて、オーストラリアがすっかり気に入ったんです。
加賀山 :そうした経緯でメルボルン大学の大学院に留学されたのですね。何を専攻されましたか?
田村 :美術史です。もともと日本の大学院で、オーストラリアの社会史がどのように絵画に反映されたかを研究していました。その過程でアボリジニと白人の関係に興味を持ち、アボリジニの人権運動と結びついた新しいタイプの先住民アートについてさらに掘り下げたくなりました。
加賀山 :そのあと帰国して、大学講師をされたのですね?
田村 :はい。英語と地域文化研究(オーストラリア)を担当しました。
加賀山 :香港とニュージランドにも住まれたとか?
田村 :メルボルン留学中に知り合った夫が香港人ですので、約1年間、香港で生活しました。それから病院勤務の夫についていってニュージランドでも生活しました。そして2004年にオーストラリアに移り、いまに至ります。
加賀山 :ひょっとして中国語もおできになるとか?
田村 :広東語をちょっとかじった程度です。ただ、頭の体操に、語学アプリを使って、中国語と、第二外国語で学んだドイツ語と、メルボルンでかじったイタリア語の合わせて三カ国語に毎日それぞれ10分程度ずつ取り組んでいます。昨年始めたのでまだビギナーレベルです。
15年前に買った本が翻訳学習のきっかけに
加賀山 :学習歴ですが、翻訳の勉強は2018年にフェロー・アカデミーの通信講座を受けたのが最初でしたか?
田村 :はい。15年ほど前に日本に一時帰国した際、翻訳関連の本を4冊買って、2冊は読んだのですが、その後いろいろあって忘れていました。ところが、子どもが高校2年生になり、子育てが終わったあとはどうしようと考えながら家を片づけていたら、読んでいなかった2冊がたまたま出てきたんです。柴田元幸さんの『翻訳教室』(朝日新聞出版)と、灰島かりさんの『絵本翻訳教室へようこそ』(研究社)でした。
せっかく買ったんだから、もったいないからやってみよう、くらいの気持ちで練習問題に取り組んでみたところ、とてもワクワクしました。その2冊を終えたときにもっと訳したいと思い、インターネットで検索して、ないとうふみこ先生の児童文芸の通信講座を見つけました。ちょうど締め切りが3日後に迫っていて、ふだんは優柔不断なんですけど、このときばかりはこれを逃してはいけないと思ったので、その場で決断して申しこみました。
パース市内を流れるスワン河。週末はマリンスポーツの人気スポット。
加賀山 :ちょっとドラマチックですね。通信講座の受講中、オーストラリアと日本のあいだのやりとりで不自由はありませんでしたか?
田村 :オンライン受講ではなかったので、接続の問題などはとくにありませんでしたが、ほかの生徒さんとの交流がなかったのは寂しかったですね。ないとうふみこ先生の講座のあとには、上原裕美子先生のノンフィクションの通信講座も受けました。
そうしてフェロー・アカデミーのマスターコースをふたつ修了したものの、基礎からやっていないという不安がありました。そこで、大学講師をした際にお世話になった英文学の先生が監修している通信講座を見つけて受講しました。日本語と英語の言語学的な分析から始まる内容で、いまでも教材をたまに読み返したりしています。
加賀山 :文法中心ということですか?
田村 :文法も含まれますが、例えば、日本語の「〜べからず」という言葉は「〜べき」と「〜でない」のふたつの要素が動詞の語幹に付いています。このように日本語は「膠着語」の性質を持ち、英語はought not goのように分離した「孤立語」の性質を持つということや、日本語は「やまと言葉」と漢語が混じった二重構造だが、英語もゲルマン系とラテン系の言語が混ざって構成されているという共通点があるとか。そのほか、翻訳者は原文テキストが「表出expressive」「情報informative」「呼びかけvocative」などのうち、どの機能を持つか見極め、訳文も同じ機能を持つ表現を選ぶ必要がある、というふうに原文と訳文のコンテクストが同質になることを目指すための方法論を学べたのはよかったと思います。
加賀山 :翻訳のテクニカルな面より理論から考えていく内容だったのですね。アメリアに入られたのはいつでしたか?
田村 :フェローで最初の講座を受講中の2018年の秋に入会しました。
加賀山 :アメリアに入ってよかったことはありますか?
田村 :情報誌が充実していますね。スキルアップに関する連載やコラムなど、興味深く読んでいます。翻訳者の方の講評がある「定例トライアル」や「翻訳お料理番」のコーナーに自分の訳文を送ることもあります。
Webサイトに掲載されているインタビュー記事も好きです。こんなにいろんな翻訳者の方がいるんだなあと眺めていたので、今回自分が出ることになってとても驚きました(笑)。
加賀山 :アメリアの情報誌はオーストラリアに郵送されるのですか?
田村 :以前は紙媒体でしたが、現在は電子版で読んでいます。
論文や海外レポートの執筆も
加賀山 :翻訳以外にも執筆の経験がおありです。
田村 :大学院時代や大学講師をしていたときに、オーストラリアの絵画と社会史の関係を考察する論文が学術誌に掲載されました。そのほか、発達障害について研究しているおばの依頼で、『自閉スペクトラム症の展開 我が国における現状と課題』(寺山千代子ほか著、金剛出版)の巻末の別章「海外レポート:西オーストラリア州における自閉症をめぐる福祉と教育」を書きました。
加賀山 :今後も翻訳以外の執筆がありそうですか?
田村 :そうですね。書くことは昔から好きで、機会があれば書きたいのですが、空白の20年といいますか、専業主婦の時代にあまり読み書きをしない生活をしていたので、調子が戻るのに時間がかかっています。日本語も英語も中途半端になっている気もするし、日本語についての感覚が昭和から平成の初めで止まっている点も課題に感じています。新型コロナの流行時に半年日本に滞在して、だいぶ感覚は戻りましたが。
こうした不安を抱えていたので、フェローで葉山孝太郎先生のクラスを受講することにしました。翻訳の課題に加えて、エッセイの添削もしてくださる点が魅力的でした。この講座を通じて、日本語力をブラッシュアップしたいと考えています。
加賀山 :そういえば、オーストラリアで新型コロナの流行はどうでしたか?
田村 :パースがある西オーストラリア州では、感染者が少なかったので、海外渡航もオーストラリア国内の他の州との往来も禁止しました。しかし、日本在住の父が危篤になったので、オーストラリア政府の許可を得て日本に一時帰国したところ、そこから半年間戻れなくなりました。ですので、第5〜6波のころには日本にいました。その間に日本語にどっぷり浸かれたのはよかったです。
ブラックスワンは西オーストラリア州のシンボル。公園の池で子育て中。
加賀山 :仕事に支障はありましたか?
田村 :いいえ。ちょうど訳書に取り組んでいましたが、すべてオンラインでのやりとりだったので、問題なく仕事をすることができました。
加賀山 :今後、日本に帰って来られる予定はありますか?
田村 :もっと歳をとってからはあるかもしれませんが、年金もないので暮らしていけるかどうか……。
加賀山 :年金があっても金額が足りませんから、みんな同じです(笑)。
田村 :貯金でがんばります(笑)。
加賀山 :今後、田村さんが翻訳で実現されたいことはありますか?
田村 :そうですね、じつは『ELEVATE 自分を高める4つの力の磨き方』を訳すなかで、自分がやりたいことを再確認しました。本のなかに、自分のコアパーパス(人生の目的)とコアバリュー(心の奥底にある大切にしていること)を洗い出していくエクササイズがあったんです。それをやってみて、「異文化をつなぐ」ことをしていきたいと改めて思いました。
加賀山 :それがコアパーパスとコアバリューだったのですね。
田村 :高校でオーストラリアに留学したときに、留学生の集まりでみんなが一致した答えが、「自分の友だちがいる国とは戦争をしたくない」というものでした。すべての人が外国に友だちを持つような世界を作りたいよね、と。いかにも高校生らしいまっすぐな夢ですが、基本的な思いはそこから変わっていません。とにかく、自分ができる範囲で「いろんな人をつなげていこう」、「誤解を解く手助けをしよう」という思いがあって、その一環として翻訳に取り組んでいます。
いま携わっているボランティアの案件で、まだ差別とか人種とかわかっていない年齢の子どもたちからの手紙を訳すことがあります。その子たちが大きくなってそういう問題に直面したときに、子どものころ、日本という遠い国のおじちゃんおばちゃんと文通したなという思い出があると、憎しみの連鎖のようなものを少しでも防ぐことにつながるのではないかと思っています。
ですから、翻訳以外でもそうしたことにつながる活動や機会があれば、ぜひ積極的にチャレンジしたいです。
加賀山 :これまでのキャリアを拝見すると、翻訳以外にもいろいろな引き出しがありそうですね。
田村 :もうちょっと早く気づけばよかったかもしれません(笑)。来年、還暦なので。
■ 還暦でもぜんぜん間に合うと思います! オンラインの発達でますます国境に関係なく仕事ができるようになってきましたから、多彩な経歴と知識を生かして、オーストラリアで、香港で、あるいは日本でもご活躍ください。