前田 光さん
飛騨で中国語を翻訳中!
プロフィール
短大を卒業後、天津の南開大学に語学留学。帰国後にステンレス意匠鋼板メーカーに就職し、海外事業部で貿易事務、社内翻訳、契約書の翻訳等に携わる。その後ふとしたきっかけで海外支援活動に関わるチャンスを得て西アフリカのマリ共和国で村落開発事業に参加するも、「ここでの自分の強みって現地の人より金持ってるってことだけじゃん」と自分の無力さを痛感しつつ帰国。それからは遺跡発掘やホテルのアルバイト、携帯電話ショップの店員、家業の家具製作の補助と経理事務などしつつ、出産と子育てを挟んで中国語の勉強を一からし直し、7年ほど前から本格的に翻訳業を始める。現在は産業翻訳と出版翻訳に従事。
自動車に関するさまざまな法規を訳す
加賀山 :本日は岐阜県飛騨市にお住まいの中国語の翻訳家、前田光(まえた ひかる)さんにオンラインでお話をうかがいます。もともとそちらにお住まいなのですか?
前田 :いいえ、出身は広島県です。夫が家具職人になりたいということで、木工の学校にかようために、結婚と同時にこちらに移ってきました。
加賀山 :ああ、岐阜は木が豊富だから……。
前田 :こんな寒いところは早くおさらばしようと思っていたんですが(笑)、居心地がよくて長居しています。
仕事場から見える景色に
癒されます
加賀山 :山々も近くていいところですよね。
さて、お仕事の内容からうかがいます。プロフィールを拝見しますと、中国の自動車関連の法規を日本語に訳しておられるということですが、これは具体的にどういう法規ですか?
前田 :中国で車を生産して販売する場合には、中国の法規にしたがわなければいけません。つねに最新の法規を自動車会社が把握しておく必要があるのですが、自動車会社はそれらの法規を草稿の段階から入手しています。草稿ですから起草機関が修正を重ねるたびに内容もしょっちゅう変わるのです。
加賀山 :変わるたびに訳さなければならない?
前田 :そうなんです。たとえば台湾案件については法律の草稿は見たことがありません。ですからメーカーは、基本的に法律にしたがって製造、販売すればいいと思うのですが、中国の場合、最終的な法律にするまえに、意見募集稿とか、検討稿というたたき台が何度も出てきて、それぞれのメーカーが意見を提出します。
メーカーとしては、意見を出さないときでも、最新の動向は把握しておかなければならないので、それらをすべて日本語にする必要があるんですね。
加賀山 :法規の内容としては、エンジンやボディはこれこれの規格でなければいけないというようなものですか?
前田 :たとえば現在、燃料電池とか駆動用バッテリーの統一規格がありません。ですがそれらのリサイクルやカスケード利用を、メーカーを超えて実現するならば、規格の統一は必須です。そうなると法規の起草メンバーに加わったメーカーは当然ながら自社の規格を採用してもらいたいので、中国側のそういう情報を仕入れて意見を言ったりするのです。
加賀山 :その翻訳の仕事が、たとえば月に1度といった頻度で入ってくるのですか?
前田 :法律の数がものすごく多いので、次々と入ってきます。このまえ訳したのはエンジンに関するもので、今度はシャーシやライト、タイヤの規格といったふうに。自動車のパーツ自体、2万点以上ありますから。
ですので、改訂版の変更箇所だけ訳す「差分翻訳」の割合がすごく高いのです。メーカーさんは変更があったところだけを知りたいということですね。
加賀山 :なるほど。そのお仕事はメーカーから直接依頼されるのですか?
前田 :翻訳会社を介して依頼されます。この中国法規の仕事をいただいているのは1社からです。
加賀山 :それは中国語専門の翻訳会社なのですか?
前田 :いいえ、あらゆる言語を扱っていると思います。1件終わったら次はこれというふうに依頼が来ますが、年に1、2度、ぽっかりとあいだが空くときがあって、そういうときには、「何かまずいことやらかしたっけ?」と不安になります(笑)。
加賀山 :中国ニュースサイトの記事も訳しておられるとか?
前田 :それは別の翻訳会社さんからいただく仕事です。おつき合いが長い会社で、1日1件とか、2日に1件とかいうペースで訳させてもらっています。
加賀山 :あと、ぜんぜんちがう分野ですが、プロフィールには、ウェブ漫画の中日翻訳というのもあります。これはどんな漫画ですか?
前田 :デスバトルというか、戦いのシーンが多い漫画です。アメリアの求人経由でいただいた仕事で、内容もおもしろかったのですが、残念ながら本国で連載が止まり、翻訳のほうも打ち切りになってしまいました。日本では1巻だけ単行本が出ています。
単行本化された漫画
加賀山 :それは残念でしたね。ほかにやっておられる仕事はありますか?
前田 :これもアメリアのスペシャルコンテストをつうじてですが、文響社さんという出版社から依頼されて、来年の1月ごろ本が出ます。
加賀山 :出版翻訳ですね。どういう内容の本ですか?
前田 :いまのところ、「台湾でベストセラーになったビジネス書」とだけしか言えません。
加賀山 :中国ではなくて台湾なのですね。台湾は新型コロナの対策も成功して、いま世界で注目されていますからね。
前田 :そうですね。じつは続けてもう1冊訳していまして、それは「台湾と日本のコラボ企画」です。
加賀山 :まだくわしくは明かせないと(笑)。いろいろありますね。ほかはいかがですか?
前田 :ほかには、また別の翻訳会社さんから、台湾や中国と取引のある日本企業の内部資料とか、機器の取扱説明書といった単発の仕事が入ります。
だいたいそのくらいですね。
履歴は波瀾万丈?
加賀山 :これまでの経歴についてうかがいます。1991年から天津の南開大学に留学されました。そもそも中国語を学ぼうと思ったきっかけは何だったのですか?
前田 :高校生のときに選択科目で世界史をとったのですが、その先生が東洋史になるとがぜん張りきるかたで、すごくおもしろかったんですね。それで中国の歴史に興味を持ちまして、いつか行きたいと思っていました。
その後、短大の必須科目に東洋史がありまして、その先生に中国留学のことを相談したら、「ぜひ行きたまえ。ぼくが大学生のときは文化大革命で、行きたくても行けなかったんだ!」と言われました(笑)。
加賀山 :留学先に天津を選ばれた理由は?
前田 :その先生が、北京はやめなさいとおっしゃったんです。日本人がたくさんいるので、勉強にならないから、と。そこで、先生の教え子がいる天津の大学に行くことになりました。2年数カ月の語学留学でした。
加賀山 :帰国後は、ステンレス表面処理メーカーの海外事業部に就職されました。
前田 :そうです。バブルがはじけた直後で、就職活動に苦労していたときに、北京で工作機械の展示会があったんですね。その展示ブースでアルバイトをしたところ、中国語ができる人を探している知り合いがいるから紹介するということで、紹介してもらった企業に就職することになりました。
加賀山 :その勤務先で、武漢に合弁会社を設立するプロジェクトにたずさわられたのですね?
前田 :はい、わけもわからず働いていました(笑)。おもな仕事は、貿易事務や、中国側との連絡、契約書の作成などでした。
加賀山 :そして次はアフリカのマリに……。
前田 :はい。その会社を辞めて、しばらく留学時代の知り合いをいろいろ訪ねてまわったのですが、マリに行ったときに案内してもらった海外協力団体に誘われて、働くことになりました。
加賀山 :大胆な転職ですね。ご家族も心配されたのではありませんか?
前田 :まあ、言っても聞かないだろうとあきらめていたふしもあるし、「お父さんお母さんに反対されて行けなかった」とあとで言われたくなかったようです。
加賀山 :マリには何年いたのですか?
前田 :一時帰国してまた行ったのですが、1年半ぐらいですね。マリはイスラム教徒が多い国なのですが、戒律はわりとゆるやかな部分もあり、たとえば女性は中東の女性のように肌を徹底的に隠したりはしません。
加賀山 :そこでのコミュニケーションは英語ですか?
前田 :いいえ、多民族の国なので、言語もたくさんありますが、私が使っていたのはフルベ語です。
加賀山 :フルベ語。初めて聞きました。
前田 :もうだいぶ忘れてしまいましたが……。中国人もいまして、中国語を使う機会もありました。仕事は、ひとことで言えば、イスラム教徒の女性の地位向上のための活動でした。男性優位の社会で女性が収入を得ることを支援しようという。そういう仕事は担当も女性のほうがいいだろうということで、私が指名されたのです。
マリには世界各国からNGOなどもいろいろ来ていましたが、私が働いていたのは日本の団体で、スタッフは日本人4人でした。
加賀山 :なかなかできない体験です。そのあと帰ってこられて、岐阜に住みはじめたのですね?
前田 :そうです。主人がマリのその団体のスタッフだったので、結婚して、木工を習うためにこちらに移り住みました。
加賀山 :当初はボランティアで通訳もなさっていたとか?
前田 :そうですね。海外の斡旋業者をつうじて日本に嫁いでこられた中国人女性たちの通訳でした。たとえば、病院にかかったり、妊娠、出産などで保健師さんと話したりするのを手伝っていました。最近はこのボランティアの依頼はありませんね。
興味のある分野を掘り下げる
加賀山 :岐阜に移られてから何年ですか?
前田 :22年ですね。もっとも、ちゃんとした収入を確保するつもりで活動しだしたのは、7年ぐらいまえからです。翻訳者としては、それほど長いキャリアではありません。
加賀山 :途中で翻訳の勉強をされたのですか?
前田 :主人の工房を手伝ったりしながら、中国語のブラッシュアップのためにウェブ講座や通信講座を受けたり、翻訳学校が開く中国語セミナーに参加したりしました。それはいまも続けています。
セミナーのほうは、新型コロナが流行するまえは東京まで出なければいけなくて、ちょっとたいへんだったのですが、今年はオンラインになって、その点は地方在住者として助かりました。
加賀山 :中国語のテストもいくつか受けられたそうですが……。
前田 :翻訳を始めるときに実績がなかったので、履歴書に書けることをやっておかなければと思いました。そこで中国語の検定をいくつか受けて、合格した企業に翻訳者として登録しています。とはいえ、実際の仕事は早い者勝ちというシステムの会社もあって、そこから実際に仕事を受注したことはないです。
加賀山 :引きつづき勉強されていることはありますか?
前田 :英語を勉強しています。自動車法規の翻訳で、たまに英語と中国語が併記されているものがあるんです。双方が矛盾する場合には英語を優先するという規定も見かけますし、中国語が難解で、英語のほうを読まないとわからないときもあるので、英語はやはり必要ですね。英日翻訳のレベルまではなかなかいきませんけど。
あと、自動車法規の翻訳をするまで、車にとくに思い入れはなかったのですが、翻訳の対象物を好きになるところから始めようと思って、自動車について情報収集しています。
加賀山 :たしかに、訳すものを好きになると仕事の効率も上がる気がします。
前田 :もちろん、好きになれるものとなれないものがあります。たとえば、私はファッションや化粧品などにはほとんど興味がないので、それを好きになって翻訳するのはまず無理なのですが、自動車に関しては、たまたま親戚に運送会社の経営者や自動車整備士やモトクロスのアマチュアレーサーがいます。父もトラックの運転手をしていましたから、子供のころからトラックに乗せてもらったりして、わりとなじみがあったんですね。
加賀山 :ああ、そうした生活環境から冒険好き(?)になられたのかもしれませんね。
前田 :でしょうか。そういう下地があったので、車は好きになれるかもしれない、突っこんでみようと思い、本などから情報を仕入れています。出てくる用語をすべて記憶しているわけではありませんが、何かのときに、「あ、あそこに書いてあったな」とふっと浮かぶことがあると思うんです。
加賀山 :そういうことは小説の翻訳でもありますね。「あ、そういえばあそこで……」という感じで思い出します。
前田 :そうなんです。自動車の展示会、オートモーティブ・ワールドなどにも行くようになりました。技術やパーツをいちいち理解できなくても、行っていろいろ見ておくことに意義があると思って。
「日光温室」の原書
加賀山 :プロフィールには農業もやっておられるとありますが。木工に農業となると、飛騨はぴったりですね。
前田 :エコでロハスな生活をしてる感じですよね、してませんけど(笑)。中国に「パッシブソーラー温室」というのがありまして、同郷の先輩から、それに関連した本を訳してもらえないかと言われて、1冊訳したことがあります。中国語では「日光温室」といいまして、気温が氷点下になるような東北部でも、電気や石油を使わずに温室内部を10数度に保つことができる技術です。その後、日本では湿度が高くて作物に病気が出るなど、実現できないことがわかったのですが。
加賀山 :それはおもしろい。
前田 :でも、勉強になりました。フリーランスで訳しはじめるまえの話ですが、薄い本でも1冊訳したことが自信になって、あれを訳していなかったら、翻訳を仕事にできるかもなんて思わなかったかもしれません。
中国語の機械翻訳も侮れない
加賀山 :自動車以外に、これから訳してみたい分野はありますか?
前田 :今後ももし依頼をいただけるのであれば、書籍の翻訳を続けたいですね。
加賀山 :出版翻訳ですね。どのへんに興味がありますか? 小説よりビジネス書でしょうか?
前田 :生活に役立つ実務的なことが好きなので、実用書のほうが興味があります。
加賀山 :ところで、お仕事上、新型コロナの影響は何かありましたか?
前田 :じつは、武漢で新型コロナが流行ったときに、自動車関連の仕事が激減しました。武漢は、日系メーカーも含めて自動車工場がたくさんある、自動車生産のメッカです。仕事がなくなるのではと不安になりましたが、幸い2カ月ぐらいでもとに戻りました。
加賀山 :中国は力業で感染症を封じこめましたからね。中国語が訳せたら、将来の心配はないように思いますが?
前田 :中国語の翻訳も、一部は機械翻訳にいく可能性があると思います。
加賀山 :英日翻訳でも、まず機械翻訳にかけて、出てきた日本語を直して完成させるポストエディットの仕事が増えていると聞きます。
前田 :ポストエディットを仕事として受けたことはありませんが、以前、複数の機械翻訳の精度の判断をしてほしいという依頼はありました。
まず、中国語の原文を読まずに、機械翻訳した日本語だけを読んで、どれくらい読みやすいか評価する。その次に原文と照らし合わせて、どれくらい忠実に訳せているかを評価するという仕事でした。
加賀山 :機械はどのくらいうまく訳せていましたか?
前田 :侮れないと思いましたね。まったくの見当はずれはほとんどなく、不自然な表現もあまりありませんでした。
ただ、最初にお話しした差分翻訳が機械でできるのかというのは疑問です。まえの文書とちがうところだけ見つけて訳すのはけっこう面倒なので。翻訳会社のかたから聞いた話では、たとえば、「発動機」と「エンジン」など、用語の統一にこだわらなければ差分翻訳もできるけれど、統一を求めるとまだ機械ではむずかしいようです。それでも、いずれはできるようになると思いますが。
加賀山 :これから中国語翻訳をやりたいというかたに、何かアドバイスはありますか?
前田 :広く浅く知識を蓄えたいというより、私のようにひとつのことを突きつめるタイプなら、まず好きなこと、興味があることを徹底的に研究して、掘り下げておくといいと思います。翻訳をするうえできっと役に立ちます。
加賀山 :中国語を学ぶのに向いている人、向いていない人というのはあるんでしょうか?
前田 :漢字ですから、日本人にとって勉強しやすい言語だと思います。何語を学ぼうか悩んでいるところなら、中国語がいいよとお勧めします。日本語と同じ意味の単語もすごく多いので。
加賀山 :語学において単語力は重要ですからね。中国語の翻訳者同士の横のつながりみたいなものはあるのですか?
前田 :いいえ、あまりありません。今後は、いつも自分が訳したものをチェックしてくださるチェッカーさんや、翻訳会社のコーディネーターのかたたちと交流を深められればいいなと思っています。皆さんとても優秀で、仕事のたびにものすごく勉強させていただいています。
コーディネーターさんは、私より私のことをよく知っています。この納期、無理じゃない? と自分では思っても、ちょっとがんばればできたということはしょっちゅうです。このかた、私以上に私のペースがわかっているわ、といつも思っています(笑)。
■私も旅行が好きで、いろいろ行っているつもりでしたが、前田さんに比べればまったく修行不足でした。中国語の翻訳の話もうかがえたし、PC越しにバイタリティとたくましさが伝わってきて、こちらもたいへん刺激になりました。