アメリア会員インタビュー

保科 京子さん

保科 京子さん

長野で出版翻訳と実務翻訳の日々

プロフィール

大学卒業後、広告代理店、英国系航空会社を経て、結婚を機に横浜から長野へ。長期海外生活の経験はなく、英語力は国内培養。英検1級を取得した頃から、地方で翻訳者として生きる道を模索しはじめる。冬季オリンピック長野大会の開催やインターネットの普及も追い風に。和訳はビジネス文書やマニュアル、企業PR文、記事から出版まで、特許と医薬を除き、幅広く対応。ネイティブのライターと組み、英訳にも携わる。リーマンショックの影響は全くなかったが、コロナ禍では苦戦。インバウンド系の仕事が多いことに気づかされる。翻訳以外にはTOEIC対策や受験対策など英語指導も行う。2003年より小説の原書を音読する「原書を読む会」を主宰。長野市在住。

事実上のデビュー作で大苦戦

加賀山 :今日は長野県長野市にお住まいの保科京子(ほしな きょうこ)さんにお話をうかがいます。出版翻訳と実務翻訳の両分野で活躍しておられます。
 まず、出版のほうからお聞きします。現在に近いところで、『災害とレジリエンス』(トム・ウッテン著、明石書店)という本を訳しておられます。これはノンフィクションですか?

保科 :はい、ノンフィクションです。ニューオリンズの人々がハリケーン・カトリーナの大被害からどう立ち直ったかという話で、初めて翻訳会社経由ではなく出版社と直接やりとりをした仕事でしたので、よく憶えています。勉強にもなりました。2011年からフリーランスで翻訳をしていますが、この本を訳して、少し翻訳というものがわかってきたかな、なんて思いました。

加賀山 :それはたとえば、どのような点で?

保科 :マネジメントを含めた翻訳といえばよいでしょうか。出版翻訳は分量が多く、納期も長いですよね。ありがたいことに、それまではスケジュール管理から校正の手配まですべてコーディネーターさんが担ってくれていたのですが、カトリーナ本では、編集者とのやりとりも含め、すべて自分でマネジメントしなければなりませんでした。プロの翻訳家であれば当然のことだと思いますが。本格的なゲラのチェックも実はこのときがはじめて。
 そのゲラに関しては、地方ならではの苦い思い出があります。ギリギリまで赤を入れていて、ほんの5分程度のことで東京方面行トラックの最終便に間に合わなかったのです。泣きました。これはもう自分で東京まで届けに行くしかない、と腹をくくりましたね。翌日、しら~っと「東京に用事がありまして、ご挨拶を兼ねてお邪魔しました」と出版社を直接訪ねました。実際はとんぼ返りでしたが。

加賀山 :そんなことがあったんですか。たしかに、そういうときには東京在住が便利ですね。それから、『オリンピックはなぜ、世界最大のイベントに成長したのか』(マイケル・ペイン著、サンクチュアリ出版)。これもノンフィクションですね。

保科 :そうです。元IOCマーケティング責任者がオリンピックのマーケティングについて書いた本です。おもしろいのですが、運営当事者が書いたものなので、あまりオリンピックに否定的な内容は出てきません。

加賀山 :いまタイムリーな本として売れているかもしれませんね(笑)。『なぜ、脱成長なのか』(ヨルゴス・カリス他著、NHK出版)という本も訳されています。

注目のテーマを扱った共訳書と、カトリーナ本。

保科 :これは現時点でいちばん新しい訳書です。姉弟子の上原裕美子さんに声をかけていただいて共訳しましたが、非常に興味深い内容でした。地球温暖化やベーシックインカムなどについては、将来にわたって大事な話題だと思っていたので、多少知識も蓄えていたのですが、なかなか……。姉弟子の偉大さを痛感しました。上原さんに翻訳を頼もうと思われた編集者さんはさすがだと思います。
 それまで私がやってきた共訳は、ほかのかたたちとページを分担して、相互のやりとりはまったくなかったのですが、この本では上原さんとお互いの訳を見る機会がありました。彼女の仕事のやり方を知ることもできて、非常に新鮮でしたね。ほかのかたと仕事をするのも勉強になると思いました。

加賀山 :ふだん翻訳は孤独な仕事ですからね。そして、これは2004年ですから出版デビュー作でしょうか、『はたらくママの必ず片づく魔法の4ステップ』(デビー・ウィリアムズ著、オークラ出版)という本もあります。片づけコンサルタントのこんまり(近藤麻理恵)さんのような路線ですか?

保科 :こんまりさんよりずっとまえですね。お片づけを入り口にした、いわゆるセルフマネジメント本です。翻訳会社のオーディションで合格して、これが初めての翻訳らしい翻訳の仕事でした。それまでも企業の社内翻訳などにたずさわってはいましたが、どちらかというとライティングに近かったので。
 この本には翻訳のチェッカーさんがついてくださったのですが、返ってきた修正案がほとんど書き直しのようになっているのを見て、自分の力不足を痛感しました。たまたまオーディションに合格したのがクリスマスの頃で、プレゼントをもらったように大喜びしたんですけど、仕事を終えたあとで、「なんでもやりたいと飛びついちゃいけないんだ」ということを学びました(笑)。

加賀山 :最初から強烈な体験でしたね。その次に手がけられたのは、『認知症がはじまった? アルツハイマー初期の人を支える』(ダニエル・クーン著、クリエイツかもがわ)ですか?

保科 :はい。患者さんをケアする人たちの立場から書かれた本で、やはり同じ翻訳会社さんからいただいた仕事です。仕事の請け負い方には、いくつかパターンがあります。希望者がお金を払ってオーディションを受ける、お金は払わずにオーディションを受ける、そしてオーディションなしで直接声がかかる、などですが、この本の仕事は、デビュー作と同じくオーディションでいただいたパターンでした。

加賀山 :同じ2006年の発刊で、『伝えるための書く技術』(デボラ・デュメーヌ著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)もありますね。これはライター向けの本でしょうか。

保科 :そうですね。これはお金を払わないオーディションで得た仕事でした。英語のライティングの技術の本なので、日本語で書くときにどれくらい応用できるのだろうという疑問はなきにしもあらずですが……。

地元企業とのつながりも

加賀山 :出版関係では、ほかにどのような仕事をされていますか?

保科 :訳者名は出ていませんが、英訳もいくつか手がけています。ネイティブのかたにプルーフリーディングをしてもらって納品しましたが、たとえば、『遥かなる遠山郷 60年前の記憶』(塚原琢哉著、信濃毎日新聞社)という写真集では、著者がヨーロッパでも活躍しているかたなので、あちらでも紹介したいということで英訳をつけたのです。

加賀山 :遠山郷は長野県ですが、これは県内のつながりから来た仕事ですか?

この2冊も長野ならではのお仕事。

保科 :たまたまこの本を出版した新聞社に知り合いがいまして、英訳ができる人を探しているという連絡をもらったのです。ほかにも、『さくら・桜 伊那高遠美しき春』(津野祐次著)や、『ウェストンが残した《クライマーズ・ブック》 外国人たちの日本アルプス登山手記』(菊地俊朗、クライマーズ・ブック刊行会著、いずれも信濃毎日新聞社)もあります。
 ウェストンの本は英訳ではなく和訳です。祝日の「山の日」ができた頃、北アルプスに登った外国の人たちが上高地のホテルの宿泊者ノートに残していったメッセージを訳そうという企画が出てきたんですね。これもやってはいけない仕事でした(笑)。なぜかというと、英語だけじゃなくて、ドイツ語、フランス語……といろんな言語があり、しかも臨場感を持たせたいということで、原文と和訳を併記するという体裁になったんです。

「クライマーズ・ブック」とその関連新聞記事。

加賀山 :ああ、それは訳文を原文と比較されて少々厳しい……。

保科 :いかにも長野らしい企画だと思って参加したんですが、ほかの言語の訳者さんのコーディネーター的なこともやったら、調整がたいへんなことになってしまって……。私自身はフランス語もドイツ語もわかりませんし、ノートに書かれていたドイツ語も、現在のドイツ人が読んでもわからないような古いことばだったらしくて、簡単に足を踏み入れてはいけない領域でした(笑)。

加賀山 :でもこれ、おもしろそうですね。読んでみます。
 実務翻訳もやっておられますね。プロフィールには「ビジネス翻訳」とありますが、出版翻訳とビジネス翻訳の割合はどのくらいでしょう。

保科 :仕事量で言えば、ビジネスが9割くらいです。

加賀山 :あ、そうでしたか。出版翻訳がメインかと思っていました。ビジネスのほうはどういう内容が多いのでしょう。

保科 :大きく2種類あります。翻訳会社さんからいただく仕事は和訳で、ファッション系だったり、企業の人事関係や研修用の資料だったり、ニューズレター、取扱説明書、プレゼン資料など、さまざまです。特許と医療以外はなんでもあります。
 もうひとつは長野県内の日本のメーカーさんからの依頼で、コレポンといいますか、メールや文書のやりとりを仲介します。こちらは英訳と和訳の両方があります。
 あと、いま英語学校で講師をしているのですが、その学校が翻訳の仕事を紹介してくれることがありまして、それらは地元の企業や行政の文書で、ほとんどが英訳です。

長野オリンピックがひとつのきっかけに

加賀山 :最初に翻訳をやろうと思われたのはいつごろですか?

保科 :まず、書くことに興味を持ったのは20代の頃です。休暇でジブラルタルに行ったとき、たまたまIRAのテロがらみの血なまぐさい出来事があり、滞在していたホテルにジャーナリストが何人も宿泊していたのです。彼らは屋上のプールサイドに陣取り、パラソルの下でのんびり記事を書いていました。ネットもノートパソコンもまだない時代ですから、きっとタイプライターかワープロを使っていたんでしょう。物書きはどこでも仕事ができるんだ、いいなぁ、と興味を持ちました。実に不純な動機ですが。

加賀山 :どこでもできるというのは、翻訳にも当てはまりますね。

保科 :具体的に「翻訳」という文字がちらつきはじめたのは、1998年の長野オリンピックの頃です。私は横浜で育ちましたが、1990年に結婚して長野に来ました。主人の家が会社をしていたので、そこで働きながら、それまでも英語を使う仕事にずっとたずさわっていたので、英語に関連した仕事をしたいなと思っていました。
 すると1991年に長野オリンピック開催が決まり、地元に英語の波が来たのです。それに乗って、通訳のようなことをやりはじめました。通訳専門の勉強をしたわけではありませんが、オリンピックというのは、とにかく人があらゆるレベルで必要なので、仕事はたくさんあったんですね。なかでも、リレハンメル大会の視察に同行させてもらえたのは実にラッキーでした。残念ながら、出産の関係で長野大会そのものにはあまり携わることができませんでしたが……。

加賀山 :何か今日はオリンピックの話題が多いような(笑)。翻訳はどうやって学ばれたのですか?

保科 :その頃はまだ翻訳学校もあまりありませんでしたので、実践で学びました。ボランティアみたいな仕事から始まって、英語が必要な地元の企業さんに使ってもらったり。
 ただ、長野市内にけっこう厳しく教える英語学校がありまして、そこで英語の勉強をしながら、翻訳も少し学んでいました。先ほど言った、いま講師をしている学校です。

加賀山 :といっても、まだ通訳がメインだったのですか?

保科 :そうですね。ところが、オリンピックが終わったとたんに、さーっと仕事がなくなったんです。

加賀山 :英語の仕事は長野に定着しなかった……。

保科 :しませんでした。その頃、英語の仕事をしていた人たちもみんな東京に行ってしまいました。たまたまディズニーシーができる時期で、長野でも英語ができる人たちが何人かそちらに行ったりして、いなくなりました。
 それで私も仕事がなくなって、どうしようかということになりまして、翻訳だったら場所も選ばないし、いいかなと考えたのです。

加賀山 :最初はどのような翻訳をされたのですか?

保科 :会議通訳のお手伝いをしたことのある会社から、文書の翻訳を依頼されたのが最初でした。

加賀山 :そして翻訳会社のオーディションに合格して、本格的に出版翻訳を始められたわけですね。オーディションのほかに、新しい仕事はどんなふうに開拓されました?

保科 :アメリアさんを活用しました。アメリアの協力会社さんから連絡をいただいたり、あとは浪人の傘張りのような仕事(笑)も含めてほそぼそとやっているうちに、あちこちから声をかけていただいて、現在まで何とか途切れず続いています。

加賀山 :いま定期的に仕事をされている翻訳会社や出版社は何社ぐらいですか?

保科 :いまは3社ですね。そのほかには、イレギュラーなものがときどき入る程度です。トライアルは不合格が続くと心が折れそうになるので、最近は受けていません(笑)。

加賀山 :訳書の紹介のところで姉弟子というお話がありましたが、学校で翻訳を学ばれたのですね?

保科 :2006年に半年間、夏目大先生の授業に通いました。

加賀山 :フェロー・アカデミーに通われたのですか? 長野から?

   

四方を山に囲まれた長野市。このあたりの標高は約400メートル。生まれかわった県立美術館の屋上テラスから西側の景色を望む。右の黒い屋根は善光寺さんの本堂(国宝)。

保科 :そうです、長野から、毎週1回(笑)。訳書を出したときに実力不足を感じて、これではいけないと思ったことが大きかったんでしょうね。
 もちろん、好きな翻訳書を原書で読んで、自分で訳してみて、両方の訳を比べるといった勉強法があるのはわかっていました。それが役に立つことはまちがいありませんが、まだ足りない気がして、ネットで学校を見つけたのです。

加賀山 :それで長野から通学しようと……。

保科 :そのまえにも、環境ジャーナリストの枝廣淳子さんが開いていた勉強会に参加したこともあったので、人の話を聞きながら勉強することが、刺激になって効果的だとは感じていました。
 東京に毎週出るとなるとちょっとハードルが高かったのですが、すでに長野新幹線は開通していて、たまたまそのとき運賃が安くなるキャンペーンをしていたんですね。悩んでるなら行きなよ、と友人からも背中を押されました。

加賀山 :共訳書を出した上原さんとは、夏目先生のクラスで知り合われたのですね。同じ時期に翻訳を習ったということですか?

保科 :同じ授業を受けたわけではありませんが、学校とは別に受講者の勉強会がありまして、そこでつながりました。長野から新幹線に乗って受けに来る価値があるということで「あさま組」と名づけられています(笑)。

加賀山 :ほかに何か翻訳関係で勉強されていることはありますか?

七味唐辛子屋さんのはたらく車。

保科 :市内で「原書を読む会」を主催しています。1週間に1回、私が選んだ本を参加者が順番に音読する会なのですが、それが間接的に翻訳の勉強になっているかもしれません。
 あと、英語も教えています。かつて学んだ英語学校で講師をしたり、企業の英会話の先生として呼ばれたり、いまはオンラインですが個別に教えたり……。

加賀山 :翻訳以外でも英語に触れる機会がたくさんあるのですね。

いつかミステリーを訳したい

加賀山 :これから進出したい分野などありますか?

保科 :ぜったいに訳したいのはミステリーです。

加賀山 :おっ、そうですか。

保科 :「原書を読む会」でもアガサ・クリスティーを読んでいまして、いまは『ナイルに死す』をやっています。そのひとつまえは、偶然ですがこれでした。
(Zoom画面に『葬儀を終えて』が示される)

加賀山 :おおっ、それはありがとうございます。本当に名作ですよね。今回訳して、改めてクリスティーのうまさに圧倒されました。ほかにも好きな作家はいますか?

保科 :カズオ・イシグロです。ジェフリー・アーチャーもよく読みました。読むのはルース・レンデルなど暗い話も好きなのですが、訳すとなると何カ月も暗い話につき合うのはつらいだろうなという気はします。いまのところ訳す当てはありませんけど(笑)。
 そもそもイギリスが好きでした。小学校時代にシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』を読んで、これはすごいと思ったのがきっかけです。

加賀山 :実際に旅行もされました?

保科 :ええ、大学の卒業旅行で『嵐が丘』の舞台の丘を訪ねました。その後、広告代理店に入社したのですが、お金をもらいながらイギリスに行けないものかと考えまして、イギリスの航空会社に転職しました。客室乗務員になって、イギリスと日本を往復していました。

加賀山 :そのあと結婚して長野に行かれたのですね。最後に、これから翻訳を学ぼうというかたに何かアドバイスがありましたらお願いします。

保科 :飛びつかないこと、ですね(笑)。いましかない、これを逃したら次はない、とどうしても思いがちですが、それでも飛びつかないこと。あとあと苦労しますから、仕事はしっかり選んでください(笑)。

■横浜から長野に引っ越したときには、山に囲まれて窒息しそうな感じがしたけれど、いまはすっかり山岳風景を楽しむ余裕ができたとのこと。うらやましい職場環境です。《クライマーズ・ブック》も購入しましたので、楽しみに読ませていただきます。

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