波多野 理彩子さん
長くそばに置いてもらえる本を訳したい
プロフィール
大学卒業後、繊維・化学メーカーの広報室勤務を経て翻訳業に入る。訳書に『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(トーマス・サヴェージ著、KADOKAWA刊)、『人の心は読めるか』(ニコラス・エプリー著、早川書房刊)など。共訳書に『月をマーケティングする』(デイヴィッド・ミーアマン・スコット、リチャード・ジュレック著、日経BP刊)、『ライス回顧録』(コンドリーザ・ライス著、集英社刊)など多数。出版翻訳と並行して、経済誌や国際ニュース誌、ウェブメディアなどで政治・経済・社会情勢からエンターテインメント、美術、スポーツまで幅広いジャンルの記事を多数翻訳。趣味は北海道に来てから始めたガーデニング/家庭菜園とスキー。自宅で採れた野菜や地元産の新鮮な食材を使って成長期の男子二人の胃袋を満たす日々。北海道札幌市在住。
話題の映画化作品を翻訳
加賀山 :今日は北海道札幌市にお住まいの実務・出版翻訳者、波多野理彩子(はたの りさこ)さんにお話をうかがいます。この8月に訳書『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(トーマス・サヴェージ著、KADOKAWA)が出たばかりということですが、売れてますか?
波多野 :どうでしょう(笑)。私も気になってamazonの順位をチェックしていますが……。フィクションを訳したのは初めてなので、感覚がつかめません。
最新訳書の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
加賀山 :初のフィクションだったんですね。12月からNetflixで配信ということで、予告編が出ています。
波多野 :はい。そのまえに劇場公開があるようです。
加賀山 :それは売れますよ(笑)。映画の原作本は公開後より公開前に売れるそうなので、楽しみですね。この本を訳す話は、どういうふうに入ってきたのですか?
波多野 :3、4年前、アメリアを介してKADOKAWAさんでリーディングをするようになって、まったく別の本を読んでいたのです。そのときにご縁ができた編集者さんから、2年ほどまえに急遽読んでくれないかということで、この本のリーディングを依頼されました。
もちろん、映画化が翻訳出版の大きなきっかけではあったんですが、話自体がものすごくおもしろかったので、「これはぜひ出してください」という激推しのレジュメを書きました。
加賀山 :おお、すばらしい。
波多野 :レジュメを出して数カ月後に「出版することになりました。翻訳もお願いします」という連絡をいただいて、翻訳まで任せていただけるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです。不安もありましたが、とにかくいい作品にしよう、自分が読んだときの感触や感動がそのまま読んだ人に伝わるように、と願いながら訳しました。訳稿を提出したのが去年の夏の初めで、そこからしばらく動きがなかったので、ちょっと心配していましたが、ありがたいことに今年の春から急に進みだして、8月に出版されました。
加賀山 :無事出版されて何よりでした。「『エデンの東』や『ブロークバック・マウンテン』を髣髴とさせる」という書評もありますが、どんな話なのですか?
波多野 :1920年代のモンタナ州で兄弟が大きな牧場を営んでいます。西部を舞台とした兄弟とその家族の確執の話という意味では『エデンの東』ですね。それで、弟のほうが、子連れの未亡人と結婚して、その夫人を兄が精神的に追いつめていくという、わりとサスペンスタッチの話です。
加賀山 :その兄役がベネディクト・カンバーバッチですか。意外に怖い内容ですね。
波多野 :そうなんです。身体的な暴力はないんですけど、心理的な追いつめ方がサイコスリラーで、ハラハラドキドキしていると、最後にある大きなことが起きるという。
加賀山 :宣伝文句に「ラスト4行に驚愕!」とある、これですね。
波多野 :そういう点ではミステリーですが、登場人物同士の関係に同性愛をにおわせる部分があるので、そういう小説としても読めます。『ブロークバック・マウンテン』を髣髴させるというのは、そのあたりでしょうか。それに家族小説でもあり、開拓時代の雰囲気が残る西部や、そこに住むいろいろな立場の人たちの暮らしぶりが詳細に描かれていて歴史小説の要素もあるというふうに、いろいろな読み方や楽しみ方ができるところがとても私好みでした。作者の観察力や人間関係の描きかたもすばらしくて、読んでいてはっと気づかされたり、自分のことのように共感できたり、我が身を振り返って考えさせられたりするくだりがあちこちにあって、その点も「激押し」した理由のひとつです。
加賀山 :作者はすでに亡くなっているようですが、これは昔の作品なのですか?
波多野 :原作は1967年初版です。
加賀山 :けっこうまえですね。それをカンバーバッチが掘り出してきたとか?
波多野 :カンバーバッチというよりも、ジェーン・カンピオン監督がこの小説に入れこんで、いつか映画化しようと温めていたようです。
加賀山 :映画の試写はご覧になりましたか?
波多野 :いえ、予告編を見ただけですが、訳していたときのイメージがそのまま美しく映像として形になっていて、感激しました。私も今からとても楽しみにしています。
加賀山 :本編を観るのが楽しみですね。私はこの本、ぜったい読みます。
実務翻訳から出版翻訳へ
加賀山 :ほかの翻訳作品についてもうかがわなければ……『人の心は読めるか? 本音と誤解の心理学』(ニコラス・エプリー著、早川書房)を訳しておられます。
波多野 :はい。心理学の本ですね。
加賀山 :これもアメリアのトライアルで受注したお仕事でしょうか?
波多野 :これはちがいます。以前、『クーリエ・ジャポン』という国際ニュース誌の翻訳をしていたのですが、そこでおつき合いのあった編集者さんが早川書房に移って、いただいた仕事です。
加賀山 :内容の説明には、「家族や親しい仲間の気持ちならわかると思っていたら、それは大きな勘違い」とあります。
新築時に寝室の隣に作った仕事スペース。ご近所の庭が借景。
波多野 :結局人の心は読めませんよ、ということを300ページにわたって書いているんですが(笑)、どうして読めないかということを実験やデータにもとづいてすごく丁寧に説明していて、そこが興味深いところです。いろいろな人間関係がうまくいかない原因は、往々にして「自分は相手のことをわかっている」という過信や思い込みにあるんだと気づかせてくれます。
加賀山 :証明部分に力が入っているわけですね。そのまえに訳されたのは、『月をマーケティングする』(デイヴィッド・ミーアマン・スコット、リチャード・ジュレック著、日経BP)でしょうか。マーケティングの観点から宇宙開発を考えた本のようで。
波多野 :はい。翻訳会社さんを経由していただいた仕事ですが、アポロ計画とNASAの広報戦略に関する本です。こちらもおもしろいノンフィクションで、会社員時代に広報の仕事をした経験が役に立ちました。
加賀山 :『ライス回顧録』(コンドリーザ・ライス著、集英社)は共訳ですね。
波多野 :そうです。『月をマーケティングする』と同じ翻訳会社さんから依頼されました。こちらは大学時代に国際政治学を学んでいたことが活きました。
加賀山 :共訳者のかたがたは、どなたかが中心になって集めたんですか? それとも翻訳会社のほうでアレンジしたのでしょうか?
波多野 :おそらく翻訳会社さんのアレンジだと思います。この本は翻訳会社と出版社のあいだにフリーの編集者さんも入っていました。
加賀山 :最終的にはその編集のかたが全体をひとつにまとめた?
波多野 :そうですね。かなりボリュームのある本で、その全体の校正をその編集者さんがやっていました。そのかたに「いい翻訳ですね」と褒めてもらって、自信になったのを憶えています。
加賀山 :それが今後また別の仕事につながるかもしれませんね。『最良の管理職とは何か』(ニック・ピーリング著、PHP研究所)という本も訳されています。これはストレートなビジネス書ですね。
波多野 :初めて単独で訳して出版された本でした。同じ翻訳会社さんからいただいた仕事です。
加賀山 :トライアルを受けられたのでしょうか?
波多野 :はい。この本を訳すまえに、ロンリープラネットという旅行ガイドブックのシリーズを、同じ翻訳会社さんで共訳という形でたくさん訳していました。その流れでこの本の翻訳のお話をいただいて、トライアルにも合格して訳したものです。
加賀山 :ロンリープラネットの仕事と『クーリエ・ジャポン』の記事の翻訳は、どちらが先だったのですか?
波多野 :ロンリープラネットのほうが先です。2003年ぐらいから翻訳会社やアメリアさんや知り合いの伝手でリーディングや下訳の仕事を始めて、2004年にロンリープラネットの翻訳会社さんとつながりができました。
『クーリエ・ジャポン』に応募したのは2006年です。ちょうど創刊時にたしか『通訳・翻訳ジャーナル』で翻訳者を募集していまして、ぜひやりたいと思い、直接連絡を取りました。大学でも国際政治学や社会学を学ぶなど、もともと社会問題や時事問題に興味がありましたし、創刊のキャッチコピーが「アメリカだけが世界でしょうか」というもので、すごく共鳴するところがあったので。
加賀山 :その仕事はわりとトントン拍子に決まったのですか?
波多野 :そうですね。創刊まもないこともあって翻訳者を数多く必要としていたようです。こちらもトライアルを受けまして合格しました。その後、『クーリエ・ジャポン』の編集をしていたかたが『Forbes JAPAN』に移ったので、『Forbes』の記事も翻訳するようになり、仕事が広がっていきました。
最初の報酬は図書券!
加賀山 :そもそも翻訳に興味を持たれたきっかけは何でしたか?
波多野 :会社の広報室で働いていたとき、おつき合いのあった業界紙の記者さんから、ある会社のアニュアルレポートの冒頭部分を訳してほしいと依頼されたんです。訳してみたら、それがとてもおもしろくて。本来業務とは別だったので謝礼として図書券をいただき、それが翻訳で初めていただいた報酬になりました(笑)。
加賀山 :図書券から始まったわけですか。その仕事は何度か続いたのですか?
波多野 :1回かぎりでしたが、広報の仕事よりこっちのほうがおもしろいなと思い(笑)、翻訳を勉強したくなって、通信講座を受けはじめました。1997年ごろだったと思います。それから翻訳を本格的に学びたくなって、会社を辞め、学校にかよいはじめました。
加賀山 :翻訳の収入が安定するまで会社を続けるかたが多いと思いますけど……。
波多野 :会社員を続けながら、というのが性格的になかなかできないタイプだったもので(笑)。どうしても1冊訳したい気持ちがありました。仕事が忙しくて両立はむずかしい感じでしたし、結婚生活もありましたので、いったんリセットしようかなと。
加賀山 :翻訳学校にはどのくらいかよわれました?
波多野 :4年ほどです。仕事に早く結びつけたいという焦りもあって、最初はロマンス小説の講座で学んだのですが、勉強するうちに、ロマンスだけでなく、もっと広い視点から翻訳を勉強したいという気持ちが強くなったので、フェロー・アカデミーの越前敏弥先生の入門講座を受けました。それが衝撃でした。
加賀山 :えっ、どうして?
波多野 :小林宏明さんが書かれた『GUN講座』(エクスナレッジ)は翻訳者必携です、と言われて。ロマンスからいきなりGUN講座ですよ(笑)! 自分は何も知らなかった、知らないことばかりでだいじょうぶだろうか、と思いました。そのほかにも、日本語の基本的な表現や使い分け方、小説を訳すときに意識するべきことなど、ロマンスだけではわからなかったことがいろいろあって勉強になりました。
加賀山 :続けてゼミに進まれたのでしょうか?
波多野 :そのあとは、ノンフィクションもフィクションもやってみたいという思いがあったので、両方手がけられている中村凪子先生のゼミに1年ほどお世話になったり、いろいろな先生の短期講座を取ったりしました。
そして一人目の子を妊娠していたときに『クーリエ・ジャポン』の仕事を始めたのですが、そのお仕事が天職と思えるくらいに楽しくて、ぜったいに子供が生まれても続けたいと思いました。それで出産直前まで続けて、産後3カ月ぐらいで復帰しました。復帰するときには、ありがたいことに、「待っていました」と言っていただいて。二人の子供が小さいうちは『クーリエ・ジャポン』さんにずっとお世話になっていました。それと並行して出版翻訳もやるようになり、調べ物の多いお仕事を2カ月で180ページ訳すこともありましたから、けっこう厳しい毎日でした。
加賀山 :今は出版翻訳のほうが多いのですか?
波多野 :実務もありますが、今回の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のお仕事で、1冊の本の世界を編集者さんといっしょにコツコツと作り上げていく楽しさを改めて感じたこともあり、できれば今後は出版のほうにシフトしていきたいと思っています。
来たチャンスは逃さない
加賀山 :もともと本を読むのが好きだった、英語が好きだったいうことはありますか?
波多野 :はい、本も英語も好きだったので、両方活かせるのは何かと考えたときに、翻訳になったのかもしれません。調べものも好きです。いろいろ知らなかったことがわかると好奇心が満たされて。文章を書くのも好きで、子どものころから日記を書いていましたし、会社の広報室で文書を書いて、「きみ文章うまいね」と褒められたこともありました。
そう考えると、翻訳は私にとって、「こんな楽しいお仕事あっていいんですか」という感じです(笑)。
加賀山 :条件がいろいろそろっていたところへ例の「図書券」事件があって(笑)、翻訳という仕事が見えてきた。
波多野 :大学の専攻は社会学でしたが、こういう仕事をするとわかっていれば、文学部に行っておけばよかったかなと思います。翻訳をすればするほど、知らないことが多すぎる、ベースになるものがない、と痛感することばかりなので。今回訳した『パワー・オブ・ザ・ドッグ』も、読んだかたから「ギリシャ悲劇のようですね」という感想をいただいたんですが、ギリシャ悲劇がどういうものなのか、よくわかっていなくて、今からでも勉強しなくてはと思います。ただ、大学時代に国際政治学を学んだことや会社員時代に広報室で働いた経験も、翻訳の仕事で思いがけず役に立ったので、どんな人生経験も無駄にはならないことを実感しています。
仕事柄、座りっぱなしになりやすいので犬の散歩がいい運動に。季節のうつろいも楽しめる。
加賀山 :ふだん仕事をされるうえで注意しておられることはありますか?
波多野 :やっぱり、納期はぜったいに守ることです。
加賀山 :すごい!
波多野 :あと今、山本やよい先生の通信講座を受けているんですが、「編集者さんとは誠実におつき合いしましょう」ということをおっしゃっていて、そこは守らなければいけないなと思います。
加賀山 :具体的にどういうことでしょう?
波多野 :たとえば、わからないところは、ごまかさずに正直に伝えるべきだ、とか。伝えすぎると、たんに手のかかる翻訳者になって、次の仕事がもらえなくなってしまうかもしれませんが(笑)。
加賀山 :たしかにむずかしいところですが、つき合いは長く続きますから、正直は大事ですよね。実務翻訳をベースにして、チャンスがあれば出版翻訳もしたいというかたがけっこういると思うんですが、そういうかたにアドバイスがあればお願いします。
波多野 :そうですね……来たチャンスは逃さないことだと思います。多少つらくても、どっちもやりたかったら続けることでしょうか。私自身も、どうしようと思ったときはあって、それでも忙しいときは朝の2時から起きて訳したりしていました。チャンスが来たら、まずはがんばってみるといいのではないかと思います。
加賀山 :今後訳してみたい分野、やってみたいことなどはありますか?
波多野 :今回の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』もそうですが、歴史に埋もれてしまった作家、あまり知られていないけれどじつはいい作品を書いている作家がまだ大勢いる気がします。そういう作家さんを掘り起こしたい気持ちはあります。
あと、1回読んで「さようなら」ではなく、長くそばに置いて、折に触れて読んでいただけるような本を訳したいですね。私自身、人生の中で本に救われてきたことが何度もあるので、読んだ人の救いになったり、心の支えになったりするような本を訳したいなと思います。これはフィクションとかノンフィクションとかのジャンルにかぎらず、そう思います。
■ご自身初のフィクションをワクワクしながら訳されたことが伝わってきました。近いうちに本も映画も楽しませていただきます!