
根岸 亜都子さん
銀行勤務から実務翻訳へ
プロフィール
学生時代、ヨーロッパと米国に通算10年在住。大学卒業後、銀行に20年勤務し、主に国際・投資銀行業務を担当。子育て真っ只中だった2013年に退職、フェロー・アカデミーに通った後、2014年にフリーランスの実務翻訳者に。現在は、決算短信、株主総会招集通知、統合報告書、プレスリリースなどIR分野を中心とした対外向け文書全般の主に日英翻訳に携わっている。大小様々な案件に取り組んで10年、家族や周りの人たちのおかげで続けることができている。「活動の場は柔軟に」という思いから、目下、守備範囲を広げることを模索中。プライベートでは、朝ランニングを5年ほど続けている。早朝の澄んだ空気の中だといつもの景色が少し違って見えるのがいい。
IR関連資料とは?
加賀山 :本日は神奈川県にお住まいの根岸亜都子(ねぎし あつこ)さんにお話をうかがいます。プロフィールの実績によりますと、実務翻訳でIR(Investor Relations/投資家向けに情報開示・提供する広報活動)関連資料のお仕事が多いんでしょうか。
根岸 :よろしくお願いいたします。はい、企業の決算短信、株主総会招集通知、統合報告書、プレスリリースなどを英訳しています。
加賀山 :実務翻訳の方のお話をうかがうと、ときどきIRということばが出てきますが、プロフィールの項目にある「決算短信」というのは、決算速報のようなものですか。
根岸 :はい。投資家が投資判断を行うために必要な売上や利益などといった決算情報が最も早く開示されるもので、上場企業によって証券取引所の開示ルールに基づいて四半期ごとに作成されます。
加賀山 :「決算説明会資料」という項目もありますが、これも四半期ごとに作成されるのですか。
根岸 :そうですね。決算短信をもとに、投資家等向け説明会資料を並行して作成する企業が多いです。その英文版になります。
加賀山 :株主総会とは別に、そういう説明会があるのですか。
根岸 :あります。投資家等向けに決算情報を開示する場として開催する企業が多いようです。

自宅近くのランニングコース。
加賀山 :「統合報告書」はどういったものでしょうか。
根岸 :会社の情報を財務・非財務の面から取りまとめたレポートです。その会社の業務、経営体制、中長期的な方向性などが網羅されています。企業を知るためにまず目を通すことが多いです。
加賀山 :「株主総会招集通知」というのは、株主に総会への出席を求めるものですね。
根岸 :そうです。総会が開催される前に株主に通知されます。催日時や場所、決議事項などが記載されています。財務諸表や事業報告書なども添付書類として展開されます。
加賀山 :それをもとに、株主が総会で言うことをいろいろと考えるわけですね(笑)。「経営計画書」というのは、また別の資料ですか。
根岸 :経営計画書は、おもに企業の中長期的な経営方針や事業計画をまとめたものです。社内外用の資料になります。
加賀山 :「プレスリリース」と「プレゼンテーション資料」はどうでしょうか。
根岸 :これまで英訳したプレスリリースには、新商品の開発や新規工場建設、新規借り入れなどの対外向けお知らせ、プレゼンテーション資料は、社内会議用資料がありました。
加賀山 :こういうお仕事はそれぞれの企業から直接依頼されるのですか。
根岸 :登録している翻訳会社などから依頼されます。6社に登録していますが、常時ご依頼をいただいているのは3社です。
加賀山 :すると、どういう企業の仕事が来るかはわからないのですね。
根岸 :わかりません。ただ、同じ企業の案件を複数回ご依頼いただくことはあります。翻訳会社などの登録先が案件を選ぶので、実際に新規先かリピート先かを知るのは、お仕事の打診をいただくときです。
加賀山 :お仕事の多くは対外向け文書が多いようですが、業種はさまざまですか。 まったく知らない業種だと訳すのにも苦労しそうです。
根岸 :「実務翻訳」という括りなので業種は本当にさまざまです。馴染みのない業界の場合は、専門用語などの調べ物が多く、納期との闘いです(笑)。
機械翻訳にも対応
加賀山 :ここまで説明していただいたのは日英の翻訳ですが、英日もありますか。
根岸 :ありますが、件数は少ないです。全体の1割程度です。
加賀山 :英訳ということは、英語がネイティブ並みということでしょうか。
根岸 :学生時代、父の仕事の関係で10年ほど海外に住んでいました。小中高時代に日本で教育を受けたのは3年ほどで、大学と就職は日本でした。英語はずっと身近に感じてきた言語ですが、翻訳となるとまだまだです。お仕事が英訳中心である以上、やはり少しでもネイティブに近い表現力を身に付けることが目下の課題です。
加賀山 :提出した英訳はネイティブのチェックも受けるのですか。
根岸 :案件によります。あまり込み入っていないものであれば、チェックが入らないこともあるようですが、その有り無しは基本的には私のところではわからないため、自分の仕事に含まれているものとしています。

最終チェックは紙ベース。
納品前の必須アイテム。
加賀山 :英訳と和訳でやり方とか心構えの違いのようなものはありますか。
根岸 :とくに意識したことはありませんが、例えば、通しで見直すときに英文を読み上げることがあるのですが、英語としての自然な響きやつながりを確かめるために声に出しています。そして、文章をタテからヨコに置き換えるだけでは文意が十分に伝わらないことがあるので、ことばを補ったり省いたり語順を入れ替えたりしています。おそらく、このときは英語そのものの文章として認識して見直しているのだと思います。最近は、AIとの向き合い方も考えますね。
加賀山 :AIの話が出たのでうかがいますが、ポストエディットの仕事もされますか。
根岸 :はい。機械翻訳にポストエディットとして手を加えて、ヒトによる翻訳と同レベルの品質になるようにしています。勝手が違うため、最初は抵抗がありましたが、機械翻訳の需要が高まっているのを実感していますし、今は上手く適用しなければならないと思っています。私が翻訳を始めたころとはまったく違う環境です。
加賀山 :機械翻訳を使う件数も増えているわけですね。
根岸 :ここ数年、明らかに増えています。一から訳文を起こさなくて良いので効率的に作業を進めることができます。
加賀山 :以前、人間と違って機械翻訳では「数字」を間違えないという話を聞いたことがあります。そのあたりは助かるのかもしれませんね(笑)。
根岸 :実際は、日英間では数の区切り方が違うため訳に応じて直す必要はありますが、決算短信などは数字を扱うことが多いため、一から見直す手間は省くことができます。機械翻訳の文章は自然で読みやすく、正しいと思い込んでしまいがちになるのですが、鵜呑みにすると誤訳につながりかねないため、チェックは不可欠です。企業が求める用語やスタイルにも合わせる必要があります。
加賀山 :1年のあいだで仕事の波のようなものはありますか。
根岸 :はい。決算短信関連や株主総会招集通知の案件が集中する4〜6月が繁忙期です。
加賀山 :それでも年間途切れなくお仕事はありますか。
根岸 :そうですね。ありがたいことに継続的にご依頼をいただいています。
加賀山 :訳す分量が多い案件は、まとめて依頼が来るのでしょうか。
根岸 :複数の訳者で対応します。登録先のご担当から総量と納期、引き受け可能な分量の問い合わせをいただいた後、こちらの分量を申告すると担当の方によってそれに応じた作業の割り振りが行われます。引き受けられる量が少ないときは「今回はほかの方に」となります。
加賀山 :分量にもよると思いますが、1件につきだいたいどのくらいの期間で仕上げるという目安はありますか。
根岸 :長くて1週間、通常は2〜3日です。
加賀山 :そうなると翻訳会社とのやりとりも頻繁ですよね。
根岸 :そうですね。基本的にはメールでやりとりします。私がお引き受けできない場合は、ほかの訳者を確保しなければならないため、なるべく早く返信するようにはしています。外出の際でも連絡できるようにPCメールをスマホで受信できるようにしています。
翻訳の勉強は銀行勤務時代から
加賀山 :経歴についてうかがいます。学生時代は海外生活が長かったというお話ですが、アメリカですか。
根岸 :ポルトガル、オランダ、アメリカです。
加賀山 :そして帰国し、大学卒業後は銀行に就職されました。
根岸 :外為専門銀行の東京銀行(現三菱UFJ銀行)に入行しました。在籍中は、国際、投資銀行部門で業務企画やリスク管理、海外プロジェクト融資管理などに携わっていました。
加賀山 :そのどこかで、将来フリーランスとして翻訳をしていこうという考えが浮かんだのですか。
根岸 :子供が小学校に入学したころ、翻訳の通信講座を受けたことがありました。仕事への向き合い方を考えていた時期で英語を活かせるのは翻訳かなと。軽い気持ちで受けてみたのですが、楽しかったんですね。でも、そのときは転職までは考えていませんでした。そして、子供が中学に上がる節目に翻訳を仕事にするならきちんと学校にも通いたいという思いが強くなり、思いきって退職しました。職場に恵まれていましたが、20年間、同じカルチャーに身を置いていたこともあり、違う世界も見てみたいと思うようになったのです。
加賀山 :ほかの企業に転職というようなことは考えませんでしたか。
根岸 :あまり考えませんでした。今でこそ在宅勤務は普及していますが、当時はオンサイトが基本でしたし、自由に時間を使えそうなフリーランスに惹かれていました。
加賀山 :学習歴ですが、通信講座はフェロー・アカデミーでしたか。
根岸 :最初に受講したのは別の翻訳学校の通信講座です。退職後、フェロー・アカデミーで半年間の翻訳入門、ベーシック3コース、経済・金融、ベータ応用、マスターコース「IR」を受講しました。
加賀山 :マスターコースは3カ月、それ以外は半年の講座ですね。定期的に受けようという計画を立てられたのですか。
根岸 :実務翻訳の分野に進もうと思っていたので、入門から初めて、せっかくならマスターコースまで取ることにしました。これとは別に、ベーシック3コースで教わった先生が主催されているゼミに参加し、現在も定期的にオンラインで添削・指導を受けています。
加賀山 :アメリアに入ったのはフリーランスになったときですか。
根岸 :はい。ベーシック3コースを受講後に入会しました。アメリアの求人募集には実務経験がなくても応募できる企業が多く、トライアルを受けやすかったです。
加賀山 :いま登録のある翻訳会社はアメリア経由ですか。
根岸 :はい、すべてアメリア経由です。アメリア主催の定例トライアルも活用し、「金融」クラウン会員にもなることができました。
加賀山 :クラウン会員でさらにトライアルに応募しやすくなりますね。最初のお仕事は憶えておられますか。
根岸 :契約書の日英翻訳でした。売買契約の抜粋だったと思いますけど、その後一度IR関連のお仕事をいただいて、そこから継続的にその分野の依頼がくるようになりました。
加賀山 :その翻訳の評価が高かったんでしょうね。

家族時間。
根岸 :ご縁があったのでしょう。案件との相性もよかったのだと思います。これまでの銀行経験からIRは比較的取り組みやすい分野です。さまざまな業界を扱うので変化に富みますし、翻訳とは別に、知らないことを知ることができるのは素直に楽しいです。
加賀山 :たしかに。ふだんの翻訳の勉強というと、先ほどの先生のオンライン講座になりますか。
根岸 :最近は、登録先の翻訳会社によるセミナーにも参加しています。フェローの通信講座の添削トレーナーもさせていただいています。いつものお仕事とはまったく異なるので新鮮です。初心に戻ることができて勉強になります。
加賀山 :私もフェローで講座を持っていますが、人に教えるのって本当に勉強になりますよね。
根岸 :生徒さんの質問に即答できず、調べることもしばしば(笑)。自分では気づかない点に気づかせてもらっています。実は、機械翻訳の普及はメリットもありますが、細かいところに目がいかなくなりがちだなあと感じます。そういう意味でもこのトレーナーのお仕事はありがたいです。
加賀山 :おっしゃるとおりです。将来はいまのお仕事をずっと続けたい感じでしょうか。
根岸 :息が長い翻訳者が理想ですが、こればかりは思うだけではどうにもなりません(笑)。自分なりに付加価値を探してかたちにしていかないといけないですね。
加賀山 :過去のインタビューで、実務翻訳をやりながらチャンスがあれば出版翻訳も、という方が何人かいらっしゃいましたが、いかがですか。
根岸 :すごく惹かれますけど、柔らかい文章が苦手で。どちらかというと、かしこまった文章に慣れてきましたから、出版の世界のハードルはなかなか高いです。ただ、チャンスがあれば挑戦してみたいですね。
加賀山 :最後に大きな質問ですが、翻訳で根岸さんが実現したいことは何ですか。
根岸 :そうですね……機械翻訳などの普及による環境変化に柔軟に対応しながら、人ときちんと向き合う翻訳力の実現でしょうか。正確性やスピードはもちろん大切だと思いますが、人とつながるからこそ作り出せるだろう翻訳の価値により意識を向けていきたいと思います。
加賀山 :人と向き合う、というのはどういうことですか。
根岸 :翻訳の作業に関わるさまざまな人たちとのコミュニケーション、自分と異なる立場の人たちに対する想像力といったものです。翻訳のプロセスにはさまざまな工程があり、翻訳者が担うのはその一部ですよね。それだけに、作業をスムーズに進めるためには、関係者とのコミュニケーションは不可欠です。
また、自分以外の人たちの立ち位置や状況を想像し、限られた知識のなかでも理解した上で自分の役割を果たすことが大切と感じています。ここでの想像力とは、例えば、最終の読み手を想像しながら文章表現を工夫する、後続のチェッカーを想像しながら、必要なことをきちんと申し送りする。シンプルなことですが、そうすることが少しでも工程の円滑化や企業の要望への迅速な対応につながり、そして、その先で「また次も一緒に仕事がしたい」という思いが生まれるのなら、とても嬉しいことですね。目に見えるものではありませんが、人だからこそ作り出せる確かな価値なのかなと思います。
■ どんな質問にも理路整然とお答えになるので、きっと訳文も端正で理路整然としているのだろうなと拝察します。長年の銀行員としての経験が透けて見えるようなお話しぶりと内容で、私も勉強になりました。