濱野 :出版翻訳を目指すまでの経緯についてお聞きします。愚問かもしれませんが、やはり子供の頃から本が好きだったのでしょうか?
森村 :好きでしたね。幼少の頃から言葉や本に自然と愛着を持つようになったのは、父の影響が大きかったと思います。父はもともと信州人で、島崎藤村をこよなく愛する読書家の一面がありました。小学校に上がると、藤村の「くろかみながく……」(『若菜集』)や「祇園精舎の鐘の声……」(『平家物語』)といった一節を父に命じられて暗唱させられ、誉められては得意になっていました(笑)。
濱野 :す、すごい。まさに文学の英才教育(笑)。その小学校時代は、どんな本を読んでいましたか?
森村 :詩の授業がとても好きで、学校の図書館から世界詩集シリーズを順番に借りて読んでいました―ゲーテとかリルケとか。いちばん仲の良かった友人も本好きで、お気に入りの詩句を比べ合って喜んでいました。
濱野 :おっと、小学生でリルケですか。ということは、当時から自然と翻訳書も読み始めていたのですね。
森村 :そうですね。小学校5年生の頃、その友人と競い合うように『赤毛のアン』シリーズを読んでいたのですが、翻訳者によって物語の印象が変わるのだとはっきり感じたのを覚えています。同じアンの世界なのに、新潮文庫の村岡花子訳と角川文庫の中村佐喜子訳では、名前のつけ方や言い回しがちがう。妙なストレスを感じながらも、気になる言葉遣いのちがいを批評家気取りで友人と話し合う日々でした。中学に入ると、私と彼女は文芸クラブの部長と副部長。その後もずっといちばんの理解者で、いつでも応援し賞讃してくれ、(『赤毛のアン』の舞台の)プリンスエドワード島にもふたりで出かけたほどです。そんな仲の良かった彼女は、私が東京を離れた年に他界しました。天国の彼女をうならせるような仕事がしたいですね。
濱野 :大切なご友人との別れをご経験なさったんですね。きっと、現在の森村さんのご活躍を喜んでらっしゃるでしょうね。それにしても、小学校から翻訳論議とは……将来の翻訳者への道はすでに決まっていたのかもしれません。この流れで行くと、大学は文学部ですか?
森村 :それがちがうんです。文学、哲学、美術などに興味があったのですが、「仕送りしてもらって学ぶなら実学」という意識が強くなり、外国語を学ぼうと決めました。大学入学とともに茨城から上京し、外国語大学に入学してロシア語を専攻しました。当時の気持ちの流れで選ぶことになったロシア語ですが、それを学んだことで、言葉と世界に対する新しい視点と奥行きを得ることができたと思っています。
濱野 :ロシア語ですか……文学の翻訳需要は高そうな気がしますね。では、卒業後はロシア語関連のお仕事ですか?
森村 :はい、数社で働きましたが、期間の長かった貿易会社では、ロシア語や英語の翻訳や通訳が必要な業務が多かったですね。さらに一時期、勤めていた会社の経営事情から収入が激減し、会社勤務のかたわら、ロシア語の実務翻訳や通訳の仕事をしていたこともありました。通訳ガイド、企業通訳、契約書や企業向け資料の翻訳……とにかく、いただける仕事はなんでもやりました。