アメリア会員インタビュー

岡本 彩織さん

岡本 彩織さん

医薬品の治験を翻訳で支える

プロフィール

大学の英文学科を卒業後、がん専門病院に就職。外国人患者の対応を担当する部署で、来院時の通訳や院内文書の翻訳に従事する。その後、外資系CRO(医薬品開発業務受託機関)に転職し、治験立ち上げ業務に携わる。2019年4月にフリーランスの翻訳者として独立。実務経験を活かし、治験関連の文書を中心に翻訳およびチェックを行っている。主に、同意説明文書や治験契約書などの日英翻訳。患者さんとその家族の安心のために役立ちたいという病院勤務時に持っていた気持ちは現在も変わらず、翻訳者として間接的ながらも医療や新薬開発に携われることにやりがいを感じている。

さまざまな治験関連文書を翻訳

加賀山 :今日は、福島県郡山市にお住まいの実務翻訳家、岡本彩織(おかもと さおり)さんにオンラインでお話をうかがいます。
 プロフィールの実績を拝見すると、メディカル、とくに治験関連の翻訳が中心ということですが、具体的にはどのような文書があるのでしょうか。

岡本 :治験というのは、新しい薬や医療機器が国の承認を得るために、安全性や有効性を確認する臨床試験のことです。治験に関する文書は、たとえば、治験実施計画書、治験薬概要書、同意説明文書、治験計画届、治験契約書、マニュアル類、総括報告書など、本当にたくさんあります。

仕事をしている机です。徐々に必要なものがそろってきました。

加賀山 :そのなかで、おもに訳しておられるのはどれですか?

岡本 :同意説明文書など治験に参加する患者さん向けの文書と、製薬会社と病院とのあいだで結ぶ治験契約書の英訳がメインですね。

加賀山 :英訳ですか。和訳が多いのかと思っていました。

岡本 :和訳も英訳も必要です。いま「国際共同治験」といって、世界中で同時に共通の治験実施計画書に基づいて治験をおこなうことが増えています。そうすることで、世界的に同じタイミングで新薬を使用できるようになり、海外で使われている薬が日本で使えないといった状況を改善できるからです。
 国際共同治験の場合、治験を実施する製薬会社が海外の会社であることも多く、製薬会社が用意する治験の文書は英語で作成されます。それを日本で使うために和訳が必要になります。一方で、たとえば病院からの審査結果の通知などは日本語で出てくるので、それらは逆に英語に訳す必要があります。病院との契約書なども日本語ですから、それを英訳して海外の製薬会社に確認してもらうのです。
 私の場合、英訳が仕事全体の90%ぐらいです。

加賀山 :各病院との契約書は日本語なのですね。

岡本 :そうです。ひとつの薬の治験を10の病院でおこなう場合、契約書は10以上になります。治験に関する費用の規定も病院ごとにちがいますし、ある病院は1つの契約書でも、別の病院では契約書が7つあったりするので。それらを全部英訳します。
 あと、文書は治験が終わってからも保存することが法令で決まっています。国際共同治験の場合は、原本が日本語なら英訳を添付して保管するので、英語版は製薬会社の確認用と保存用に必要なのです。

加賀山 :英訳では和訳とは別の能力やスキルを使うと思いますが、そこはどう対応されたのですか?

岡本 :「慣れ」だと思います(笑)。英語ネイティブである必要はなくて、私も大学時代に1年間留学しましたが、ネイティブ並みに英語が使えるわけではありません。ある程度決まった言い方があれば同じ表現ができますし、考え方のトレーニングをすれば対応できると思います。
 なるべく英語で参考文献とかインターネットの文書などを読んで、英語のアウトプットを多くする。つまり、頭のなかでインプットもアウトプットも英語にする流れを作ると、慣れることができると思います。

加賀山 :同じ治験の翻訳でも、和訳中心のかたもいると思います。岡本さんは英訳の翻訳ができるということで、貴重な存在ではないでしょうか。

岡本 :両方できるかたももちろんいらっしゃいますが、私自身も英訳のほうが好きなんですね。和訳をするときは、日本人だからかえって悩みすぎてしまうのかもしれません。

がん専門病院、CROを経てフリーランスに

加賀山 :フリーランスになられたのは、2019年の4月からですか?

岡本 :そうです。フリーランスになって約1年半ですね。

加賀山 :それまでは仕事をしながら翻訳をされていた?

岡本 :会社の業務に翻訳が含まれていて、そこでも英訳が中心でした。

加賀山 :大学卒業後、がん専門病院に就職されました。大学では英文学科だったそうですが、どうして医療分野に進まれたのですか?

岡本 :アメリカ文学専攻でしたから、メディカルの世界に入ったきっかけは本当に偶然です(笑)。卒業後、たまたま就職した病院で外国人の患者さんの対応を担当して、それが医療にかかわった最初の体験でした。興味とかを持つまえに未知の世界に入った感じでしたが、いまはすごくやり甲斐も感じていますし、興味もあって、これからも医療に関係する翻訳をぜひ続けたいと思っています。

加賀山 :がん専門病院に2年半ほど勤めたあと、外資系CRO(医薬品開発業務受託業務機関)に転職されました。CROというのは製薬会社とはちがうのですか?

がん専門病院で働いていた頃です。

岡本 :製薬会社は新薬を開発しますが、それを製造販売するためには治験を実施し、副作用や効果を調べなければなりません。治験には、膨大な時間とお金がかかります。その治験を、製薬会社から委託を受けて実施するのがCROです。CROが治験のさまざまな業務を製薬会社に代わっておこなうことで、新薬開発の効率化やスピードアップにつながります。

加賀山 :「治験のプロ」のような存在なのですね。CROでも2年半ほど働かれたということですが、病院にしろCROにしろ、未体験の分野に入ってけっこう苦労されたのでは?

岡本 :そうですね。たとえば、がん専門病院では、がんそのものの知識も必要でしたが、当初は日本の保険の仕組みなどもあまり知らなかったので、すべてが新しくてたいへんでした。また、がん患者さんと接するときには気も遣いました。
 CROのほうも、大きいくくりでは医療なのですが、まったくちがう業界なので、覚えること学ぶことがとても多くて、最初は圧倒されました。ですが、どちらも慣れると楽しいところがあるんですね。
 わからないことは自分から積極的に聞いていかなければとは思っていましたが、まわりに教えてくれる人がいて、環境に恵まれていたということもあります。

加賀山 :そういう職場にいらっしゃるのは、医療の専門家ばかりではないのですね?

岡本 :必ずしも医療系や理系のスタッフばかりではなかったと思います。とくに病院のほうは、ふだん患者さんに接しているからだと思いますけど、皆さんわかりやすく説明するのがうまいので、質問するとすごくわかりやすく教えてくれてありがたかったと思います。

加賀山 :使う英語の語彙もぜんぜんちがいますよね?

岡本 :そこは、患者さん向けの情報がまとまっている英語のサイトや、英語圏の病院のサイトなどを読んだりして勉強しました。日本語の用語は病院内の人に聞けばわかるのですが、それを英語で説明するときにどう表現するかということになりますので。

加賀山 :CROでは治験の計画も立てるのですか?

岡本 :治験実施計画書は製薬会社が準備し、それをもとに各病院で実施します。治験を病院で始めるまでには、厚生労働省に治験計画届を出さなければいけませんし、それぞれの病院の治験審査委員会でその治験が倫理的・科学的に妥当であるか、治験を実施する医師は適切かといった審査があります。そのうえで、製薬会社と病院が契約を結び、治験が開始となります。
 CROにいたときは、この治験立ち上げ期間にかかわる部署に所属していました。具体的には、タイムラインの管理や規制当局への申請業務、必要な文書の作成およびチェック、翻訳の管理などを行っていました。治験全体のプロセスは長く、1つの試験にさまざまな部署のスタッフが関わり、それぞれの業務を行います。たとえば、データの収集や進捗状況の管理のために病院に行って先生とお話ししたり、結果的に得られたデータをまとめたりといったことは、それぞれちがう部署の人たちがやっていました。

加賀山 :なるほど。実施する病院の選定などもやるわけですか?

岡本 :私が所属していた部署の担当ではありませんでした。担当部署のスタッフが、法令で定められている要件や試験の要件を満たす病院かどうかを確認し、その報告を受けた製薬会社が選定します。

加賀山 :実務実績に、CROで治験を6件担当したとありますが、2年半で6件ということは、だいたい半年に1件ということですか?

岡本 :試験の規模にもよりますが、1つの試験の立ち上げには半年以上かかります。常に複数の試験を担当し、それぞれの試験の進捗に応じて対応していました。

加賀山 :立ち上げでそれだけということは、結果をまとめることも入れると、全体で2〜3年かかる?

岡本 :もっとかかると思います。

加賀山 :そんなに。それを考えると、素人目にも今回の新型コロナのワクチンなどは異様な早さですね。

岡本 :そうなんです。とてもはやく進んでいて驚いています。

加賀山 :それで思いましたが、治験を早くしてくれというプレッシャーがかかったりすることはありませんか?

岡本 :製薬会社はどの薬でも早く患者さんに届けるために努力していますし、病院の先生がたも、よりよい薬を早く患者さんに提供したいという気持ちです。ですが、治験を含め必要な段階を省略するわけにはいきませんので、各種の届け出などの事務手続きは、できるかぎりすみやかにおこなうことが求められます。そのため、CROが請け負う業務では、スピード感を求められることが多いのです。

加賀山 :つまり、いちばんしわ寄せが来そうな仕事なのですね。

岡本 :しかも、翻訳となるとそれ自体に時間がかかりますから、プレッシャーは大きいですね。

翻訳を依頼する側から依頼される側へ

加賀山 :いまフリーランスでやっておられる翻訳の仕事は、CROが外注するような文書ですか?

岡本 :そうです。私がいたCROも基本的には翻訳を翻訳会社に依頼していました。分量もたくさんあるし、納期が厳しいものも多いので、内部では処理しきれないのです。

加賀山 :その翻訳会社から、今度は翻訳を依頼される側にまわったわけですね。依頼する側のほうがよかったと思うことはありませんか?(笑)

岡本 :CROにいたときには、翻訳の管理やチェックに加えて、自分で訳すこともありましたが、それらはあくまで業務の一部であって、中心は治験を立ち上げるための業務でした。
 やはり私は翻訳そのものが好きで、翻訳会社にお願いしていた翻訳も時間さえあれば自分でやりたいと思っていました。いまはやりたいことがやれている感覚があります。

加賀山 :翻訳に専念したかったのですね。最初の切り替えというか、依頼する側からされる側にまわったときは、スムーズに移行できましたか?

岡本 :体調を崩してCROを辞めることになったのですが、次にどうしようかなと考えたときに、やりたかった翻訳の仕事にしようと決心しました。
 夫の仕事の都合で引っ越す可能性が高くなっていたので、フリーランスという働き方が合っていると思ったのです。

加賀山 :最初はトライアルか何かを受けたのですか?

岡本 :そうです。アメリアで求人が出ていたトライアルを受けました。それで結局、いまお仕事をいただいている翻訳会社との関係が始まったのですが、じつはそこは、私がCROにいたときにお世話になっていた会社でした。

加賀山 :別の立場で携わることになったのですね。その翻訳会社の担当さんもびっくりしたでしょうね。いきなり業界にくわしい人が応募してきたから。

岡本 :トライアルに合格して登録してもらったときに、担当のかたからお電話をいただいて、「以前あそこの会社にいましたよね」、「そうなんです」という会話がありました(笑)。

加賀山 :それは最初から良好な関係ですね。

岡本 :現場にいたことで、こういうときにどういうことばを使うか、どういう説明が適切かというのがわかるので、そこは強みになっていると思います。

加賀山 :日本での治験は全体として増えているのですか?

岡本 :増えていると思います。日本は世界的に見ても重要な市場です。

加賀山 :世界的に市場としてはどこが大きいのでしょう。中国とか?

岡本 :圧倒的に大きいのはアメリカです。中国もここ10年ほどで伸びてきているようです。日本とヨーロッパも大きいと思います。日本は保険制度がしっかりしていますから、医療を受けやすい環境があり、そのため医薬品の市場も大きいようです。

加賀山 :翻訳の仕事はどのくらいの納期で来るのですか?

岡本 :ものによりけりですが、短い場合には、夕方に来て翌日の朝やお昼までに訳すとか、長い場合には1〜2週間の時間をもらえることもあります。

加賀山 :新しい知識を仕入れるためにやっていることはありますか?

岡本 :数カ月前に、アメリカの大学のオンラインのコースを受講しました。アメリカでの治験や医薬品の規制に関する講座でしたが、すごくおもしろかったので、また何か受けようと思っています。オンラインだったら時間が細切れでも受けられます。

加賀山 :新型コロナの影響でそういう講座が増えましたね。

岡本 :そうなんです。無料のものもけっこうあって、東京にいない身としては、オンラインは本当に便利です。

加賀山 :これから広げていきたい仕事の分野などありますか?

岡本 :フリーランスになってまだあまり経っていませんから、とりあえずいまの治験関連の文書を一生懸命やっていくつもりです。現在、メディカルでもあまり専門性が高いものは引き受けられないので、それに取り組みたい気持ちはありますが、それも将来の話です。

翻訳支援ツールも取り入れたい

加賀山 :医療関係の翻訳でとくに気をつけていることはありますか?

岡本 :省略はせず、書いてあることを正確に訳すように心がけています。あと、どの分野にも言えることですが、数字のまちがいはないように。

加賀山 :医療で数字をまちがえたらたいへんなことになりますからね。機械翻訳なんかも入ってきているのでしょうか。

岡本 :はい。それは個人的に今後の課題です。治験はフォーマットが決まっている文書も多いので、翻訳支援ツールを使用する翻訳会社が多いようです。求人に応募するときに翻訳支援ツールの使用が条件になっていることが増えているので、私もこれから勉強しなければいけないと思っています。

加賀山 :翻訳支援ツールを使うときには、文書のファイルが送られてきて、ツールのソフトで訳して、返すという感じですか?

岡本 :いまはもうクラウドのシステム上でファイルが割り振られて、システム上で完了させる仕事が多くなっているようです。いまの翻訳会社さんからも、翻訳支援ツールを使ってみてくださいと言われていて。

加賀山 :病院勤務のときには患者さんと看護師さんや会計のかたのあいだに入って通訳もされていたということですが、フリーになったときに、通訳の道に進もうとは考えなかったのですか?

岡本 :まったく考えませんでした。通訳か翻訳かといえば、翻訳のほうがずっと好きで、自分に向いているなと感じていたので。通訳には瞬発力が必要ですが、私は深く読んで、考えて、調べる翻訳のほうが好きです。

休日は福島の大自然の中でリフレッシュしています。

加賀山 :新型コロナの流行でお仕事の状況は変わりましたか?

岡本 :受注量は変わっていませんが、新型コロナの関係で発生した文書を翻訳することはありました。新型コロナの影響で、新たに説明文書などが追加されたり、いままでの内容が改訂されたりしていました。

加賀山 :これからも郡山でずっとお仕事をされる予定ですか?

岡本 :1月末に引っ越してきて、今後夫の転勤もなさそうですから、ずっと郡山にいることになると思います。お米も果物も美味しいですよ。

■まったく新しい分野でも慣れればできるというお話でしたが、裏ではそうとうの苦労と努力があったのだろうと思います。私自身、ほとんど知らなかった医療分野の治験の話が聞けて、とても楽しい時間でした。

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