稲本 真由美さん
ドッグトレーナーから実務翻訳の世界へ
プロフィール
28歳のとき、お留守番の苦手な犬を引き取ったことで働きに出るのが難しくなり、在宅でできる仕事を探していたところ、知り合いの紹介で翻訳の依頼を受けたのがそもそものきっかけ。留学経験があるというだけで、翻訳の「ほ」の字も知らないまま、手探りで訳して納品したら予想外に喜んでもらえたことで調子に乗ってしまい、さらに通勤のない働き方の快適さに目覚めてしまったこともあり、そのまま在宅翻訳者の道を選んで現在に至る。専門分野を持たない雑食系実務翻訳者として、臨機応変さを最大の売りに、バラエティーに富んだジャンルの翻訳を数多く手がける。翻訳業のかたわら、2009年からボランティアで犬の保護活動にも携わり、自宅で常時1~2頭の保護犬をお世話しながら、新たな飼い主とのご縁結びをサポートしている。静岡県在住。趣味は散歩とサッカー観戦。夢は車中泊しながら日本一周の旅をすること。
実務翻訳で幅広く活躍
加賀山 :今日は静岡県伊東市で実務翻訳をされている、稲本真由美(いなもと まゆみ)さんにお話をうかがいます。2007年からフリーランスとして活動されています。
プロフィールの実績を拝見すると、オーガニック商品を扱うECサイトのローカライズや、Eラーニング資料(ペット栄養学、IT)、プレスリリースおよびマーケティング資料(自動車、酒類)、ウェブサイトの英訳、契約書、議事録など多岐にわたっていますが、まず「ECサイトのローカライズ」というのはどういうお仕事ですか?
稲本 :大手ショッピングサイトの案件で、オーガニック系の食品やサプリメント、コスメやバス用品などの内容量や原材料、使用方法の説明を、英語から日本語に翻訳しました。また、商品のキャッチコピーの翻訳も担当しましたが、こちらは日本語としてのリズムや、こなれ感をより強く求められる、トランスクリエーション要素の大きい仕事でした。
加賀山 :次の「Eラーニング資料」というのは社内資料ですか、それともこれも顧客向けですか?
稲本 :ペット栄養学に関する案件だったのですが、ドッグフードやキャットフードを扱っているメーカーが動物病院やブリーダーといった顧客向けに作成した資料を訳しました。たとえば、妊娠中の母犬に必要な栄養をクイズ形式で学べる資料などがありました。
加賀山 :ラーニング資料にはIT関連もありますね。
稲本 :こちらは新商品の使い方などを学ぶ資料で、社内向けでした。
加賀山 :「プレスリリースおよびマーケティング資料」というのは?
稲本 :自動車会社や飲料メーカーの新商品のウェブサイトのページや、プレスリリースを翻訳しました。ウイスキーの新商品を訳すときには、当時ウイスキーを飲まなかったので、さまざまなフレーバーの訳し方を学ぶために本を買って勉強しました。その本がおもしろかったのと、ハイボールの味も覚えたので、最近はウイスキーも飲むようになりました(笑)。
加賀山 :英日の翻訳だけでなく、ウェブサイトの英訳もなさっています。
稲本 :これはフリーランスの駆け出しの時期に受注しました。現在は、ほとんどの仕事がアメリア経由ですが、当時はまだアメリアに入っていなかったので、知り合いの紹介で直接依頼を受けていました。ル・マン24時間レースに日本から参加したチームの実況テキストを英訳するとか。
加賀山 :契約書や議事録の翻訳もされています。
稲本 :来た仕事は拒まず、馴染みのない分野でもとりあえず受けて取り組んでいます。声をかけてもらえることが何よりありがたいので。足りない知識はネット検索を駆使して補いながら翻訳していく、という感じです。
加賀山 :本当にバラエティに富んでいますね。実績には、ゲーム関連の翻訳もあります。
稲本 :最近はあまり受けていませんが、海外のオンラインゲームの登場人物の台詞、ゲーム内容の説明書、ストーリーや登場人物を紹介したレビューサイトなどを訳しました。
加賀山 :ゲーム翻訳では、エクセルシートにずらっと台詞が並んでいて、前後の状況がわからなくて苦労するといった話を聞いたことがあります。
稲本 :そうですね。たしかに何列も叫び声だけが並んでいるものがあったり、声の主が男性なのか女性なのか、若者なのか老人なのか、どういう状況でそのことばが発せられているかなど、わかりにくいこともありました。
ただ、大きめのあるプロジェクトに携わった際には、クライアントの方が親切で、翻訳作業に入るまえに現物のオンラインゲームをプレーすることができました。
趣味のサッカー観戦では、推しチームのホームゲームはもちろん、アウェイでの試合もできる限りスタジアムへ行って応援している。
加賀山 :実際にプレーすると理解度がぜんぜん違いますよね。そのほか、「美容系スキル習得セミナー教材」という実績もあります。
稲本 :これも知り合いの紹介でいただいた仕事でした。金箔を肌に貼りつけるジュエリーを開発された日本のデザイナーさんがいまして、その施術スタッフを増やすための教材の英訳でした。
加賀山 :海外にその施術を広めようとしたのですか?
稲本 :そうだと思います。金箔の上にラインストーンをのせるような、かなり高価なものなので、海外のお客様も多く、英語で対応できるスタッフを増やそうとしていました。
加賀山 :プロフィールに記載されているもののほかに、最近増えた仕事はありますか?
稲本 :ここ1年半くらい、プロスポーツ関連の翻訳もしています。野球のメージャーリーグ、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケー、欧州サッカー、それとeスポーツの試合の予想や結果、注目選手、チーム状況などを日本語に訳しています。eスポーツに関しては、ゲーム翻訳の経験を活かすことができていると感じます。
アメリアのトライアルで取引先を拡大
加賀山 :こうした実績はすべて同じ翻訳会社からの依頼ですか?
稲本 :いいえ。いまアクティブな取引先は3、4社です。10年近くおつき合いしている会社もありますが、少し単価が高い別の翻訳会社のトライアルを受けて、そちらの仕事に力を入れることもあります。
加賀山 :トライアルを受けるときに単価はわかっているものなのですか?
稲本 :アメリアの求人では、よく基本単価などが書かれていますので、それを目安にしています。私の場合は長期的・継続的なお仕事よりも短納期かつ単発の案件が多いので、依頼のメールが来ない日が数日続くと「ああついに干された」と不安になってしまうんです(笑)。そういう、仕事が減りそうなときには積極的にトライアルを受けています。
加賀山 :翻訳者としての登録自体は何社くらいですか?
稲本 :10社近くです。翻訳会社から声をかけてもらうより、自分からトライアルなどで取引先を増やすことがほとんどですね。
加賀山 :翻訳会社にはわりと積極的に「何か仕事はありませんか?」とアプローチされますか?
稲本 :スケジュールや空き状況を共有することはありますが、「仕事ありませんか?」と営業をかけたことはないです。むしろ「よかったら使ってください」という感じですね。私には専門分野がなくて、来た球を返すかたちでやってきました。お話があれば、スケジュールの許すかぎり引き受けるというスタンスです。本当は専門があったほうがいいんでしょうけど……。
加賀山 :どうでしょうね。もちろん専門分野があれば強みになりますが、長い目で見ると、その分野が衰退する可能性もあるし。お仕事は最初どうやって開拓されましたか?
稲本 :初めて翻訳で報酬をもらったのは、知り合いの紹介からでした。前職で知り合った社長さんから、「稲本さん英語できるから、これやってみない?」と打診されて、軽い感じで始まったんです。
当時、留守番がとても苦手な犬を飼いはじめたところだったので、家でできる仕事を探していました。20代前半にイギリスの大学を卒業したことから、英語を使った仕事を考えました。テープ起こしの講座を受けたりもしましたが、最終的に、ことばはよくないかもしれませんが消去法のようなかたちで、翻訳を選びました。
加賀山 :アメリアに入ってよかったことといえば、やはりトライアルで仕事が得られることですか?
稲本 :そうですね。フリーランスになりたてのころには、一般の求人サイトに載っている翻訳の仕事に応募したこともありましたが、アメリアさんの求人の仕事は、実際に手がけてみると、やりやすいことが多いので、すごく助かっています。
あと、アメリアの定例トライアルは、応募はあまりしませんけど、ときどき自分で訳して勉強に活用しています。私、すごく飽きっぽいんですよ(笑)。翻訳に限らず勉強をガッツリするのが苦手で、フェロー・アカデミー
の通信講座もいくつか受講しましたが、なかなか最後まできちんとできないまま尻切れトンボに終わることが多くて。
ただ、仕事となると逃げ場がないし、生活がかかっているので必死でやります。実践で成果を出すには練習が大切、と頭ではわかっているんですが、自分の性格としてOJTから学ぶというスタイルが合っているんでしょうね。その点、定例トライアルは、実際のお仕事と同じような感覚で取り組めるので、自分の勉強スタイルに向いていると思います。また、同業者の皆さんが頑張っているのもわかるので、私も頑張らなきゃとモチベーションにつながっています。
加賀山 :アメリアに入会されたのは、フリーランスになられた2007年ごろですか?
稲本 :ずいぶん前のことなので記憶が曖昧ですが、おそらくそうだと思います。わりと駆け出しのころからお世話になっています。最初は、翻訳者がプロフィールを無料で掲載できるほかの求人サイトに登録していましたが、ほかにも同様のサイトがないか探しているときに、たまたまアメリアを見つけて入会しました。将来の仕事をいろいろ模索していた時期にフェロー・アカデミーの通信講座を受講したことがあるので、そのときアメリアの情報も得たかもしれません。
ドッグトレーナーの経験も活かす
加賀山 :これまででとくに印象に残っている仕事はありますか?
稲本 :以前ドッグトレーナーとして、ペットとして飼われている犬のしつけをする仕事をしていたことがありまして、ペット栄養学に関する翻訳ではその知識を活かすことができました。
それと、プロフィールにドッグトレーナーの職歴を書いていたことで、別の案件で登録している翻訳会社から「ペット関連にくわしいですよね」と声をかけていただいたこともありました。もちろんそこは「犬のことならまかせてください!」と二つ返事で引き受けました(笑)。同じ会社から年に1、2回、声をかけていただいているので、過去のキャリアが役に立っているという実感があります。
淡路島にて。基本的に、旅行には犬を連れていく派(なので車移動)。11年目の愛車の走行距離は16万kmを超えた。
加賀山 :いまは和訳と英訳のどちらが多いですか?
稲本 :いまはほとんど和訳です。本当は英訳をもっとやりたいという気持ちもあるんですが。
加賀山 :ポストエディット(機械翻訳の訳文を人間が確認し、手直しする作業)もされますか?
稲本 :声がかかれば喜んでやります。ポストエディットは昔より増えているだけでなく、翻訳の精度も上がっているので、以前ほど不自然な日本語を一から手直しするという感じではなくなっていますね。一からの翻訳より単価は下がりますが、その分、同じ時間内でする分量を増やすことで対応しています。
加賀山 :コロナ禍の前後で仕事は変わりましたか?
稲本 :コロナの期間中は、むしろとても忙しかったです。各企業がコロナ対応でプレスリリースを出すことが多く、そうした依頼が増えました。
加賀山 :フリーランスになられた2007年から伊東市で働いているのですか?
稲本 :いいえ。2013年までは横浜に住んでいました。父が早くに亡くなって、伊東の実家に母がひとり暮らしをしていましたが、2011年の震災後に心配になったので、同居することにしました。ただ、そのころ犬を飼っていたので、実家の古い家屋を犬仕様に建て替え、2013年の秋に娘といっしょに引っ越しました。それからはずっと伊東です。
加賀山 :会社にも就職されましたか?
稲本 :日本の短大を卒業したあと、イギリスに留学しました。最初の1年は大学附属の英語コースに通い、学部に入学して、トータル4年で卒業しました。帰国後、アメリカに本社があるアパレル企業に就職し、店舗マネージメントの仕事をしました。ブランド自体は好きだったんですが、アメリカの合理主義的な方針が合わず、1年半ぐらいで辞めました。
そのあと、犬のトレーニングの仕事を始めました。ドッグスクールで2年半勤務したのち、独立して自分でもやっていたので、トータルで3、4年、ドッグトレーナーとして働きました。
加賀山 :その後、翻訳の世界に?
稲本 :はい。そのあとはずっと翻訳です。案件ごとに内容が違うので、飽きっぽい性格の私でも続けられているのだと思います。
加賀山 :仕事としては同じでも、中身が違いますからね。
生活の一部として翻訳を続けていきたい
加賀山 :学習歴もうかがいます。2003年にフェロー・アカデミーの通信講座を受けられていますが、これはドッグトレーナーをされていたころでしょうか?
稲本 :そのあとですね。ドッグトレーナーの仕事を辞めたときに、スクールにいた留守番のできない犬を自分で引き取りました。そこから勤めに出られなくなり、娘を妊娠してますます外に出られなくなりました。子どもが2歳くらいになるまでが模索の時期でした。
加賀山 :以後も2008年に「人物語録」のマスターコース、2010年には「フィクション」の講座も受けられています。2007年にフリーランスになったあと、マスターコースを受講されたのですね。
稲本 :ちょうどゲーム翻訳の仕事を始めたころでした。ベースになる経験もなく、いきなり仕事から入ったので、スキルを高めたいという気持ちから短期の講座を受けました。
加賀山 :すべて半年のコースですか?
稲本 :そうです。月1回、課題を提出して添削していただき、半年のあいだに1、2回、学校へ行く機会もありました。当時は青山の旧校舎でした。
これまで、大きさも性格も経緯も異なる100頭近くの保護犬たちが我が家で過ごし、新しい家族のもとへと巣立っていった。
加賀山 :通信講座のなかで覚えていることはありますか?
稲本 :フィクションの講座では、たまたま学校で席が隣だった人と仲よくなって、授業外でいっしょに遊んだりもしました。
加賀山 :学校に通うと、そうした交流も生まれますよね。
稲本 :私はあまりコミュニティに属するのが得意じゃなくて、翻訳仲間で頻繁に連絡をとれる人もいないので、孤独に仕事をしているんですが(笑)、そのときは翻訳にかぎらずいろいろな話ができて楽しかったです。
いまは翻訳の勉強を兼ねて、ロイターやCNNの英語版と日本語版を併読したりしています。
加賀山 :今後、実務翻訳以外に広げたい分野などはありますか?
稲本 :そうですね……映像翻訳にはまえからずっと興味があって、動画の配信も増えているので、やりたい気持ちはありますが、なかなか踏みこめずにいます。ですから、ごくたまに通常の案件に付随するようなかたちで、インタビューやビデオメッセージのような尺の短い動画の字幕翻訳の依頼が来ると、すごくテンションが上がります(笑)。
あと、翻訳は自分のなかで大きな柱ですが、それ以外にも、ライティングの仕事や、自分で作った犬の首輪やリードのネット販売といった副業もしています。翻訳の仕事はずっと続けていきたいのですが、たぶんほかの仕事も並行してやっていく感じです。
加賀山 :ほかのことをやりながらでもできるのが翻訳のいいところですね。最後にちょっと大きな質問ですが、稲本さんが翻訳でとくに実現したいことはありますか?
稲本 :過去の皆さんのインタビューを拝見すると、情熱を持って翻訳に取り組んでいらっしゃる方が多く、目のまえのことをとりあえず必死にやってここまで来た私には、夢とか情熱とか、語れるものがないなと感じてしまいます。
ただ、最近ポルトガル語の勉強を始めまして、語学を勉強する楽しさを改めて感じました。英語は20年以上、毎日向き合っているので、もう新鮮味はありませんが、ポルトガル語を勉強しはじめたことで語学の楽しさ、ことばのおもしろさを再認識できました。
加賀山 :今後、ポルトガル語の本を出版されるとか(笑)?
稲本 :最近、スポーツ関連の翻訳の仕事がきっかけで、Jリーグのサッカーをよく観るようになりました。推しの選手がブラジル人で、ポルトガル語の勉強のモチベーションはそれなので、今のところ翻訳の仕事とは関係ありません(笑)が、いつか何かのかたちで仕事につながるといいな、とは思っています。
加賀山 :愛犬との生活は続けていらっしゃいますか?
稲本 :じつは一昨年、去年と続けて、2頭の飼い犬が亡くなってしまいました。とはいえ、犬の保護活動を15年近くしているので、飼い犬ではありませんが、保護犬といっしょに生活しています。
加賀山 :なぜそんなに犬がお好きなんでしょう?
稲本 :もともと自分は猫派だと思っていたんですが、犬のトレーニングの仕事を始めて、種が違うのにコミュニケーションがとれることに感動したんですね。それに、犬は常に「いま」を生きていて、過去のことを思い出して悔やんだり、これから起きる未来を先回りして憂うこともない。そういう姿にとても憧れますし、自分もそうありたいと思っています。あと、飼い主が疲れ果てていようが、太ろうが痩せようが、年をとろうが若かろうが関係なく、まっすぐな愛情を向けてくれるところが大好きです。
加賀山 :ドライブもお好きだとか?
稲本 :好きな音楽を聴きながら運転するのが好きです。保護犬の譲渡会がある横浜や、犬友がいる山形にも車で出かけていきます。最近では、推しの試合を応援するために徳島まで車で行きました。さすがに遠かったです(笑)。
■ 推し活おそるべし! 飽きっぽいとおっしゃりながら、生活のなかでまじめに翻訳と向き合っておられる様子がうかがえました。出版翻訳でも、犬が出てくる話は人気が高いので(?)、今後そういうものを訳される機会も増えるといいですね。