
廣瀬 麻微さん
出版翻訳と翻訳同人誌に全力投入
プロフィール
英日翻訳者。翻訳ミステリー南東京読書会世話人。大学卒業後は県立高校の教員(英語科)として働いていたが、結婚を機に退職。東京へ住まいを移し、フェロー・アカデミーのカレッジコースにて翻訳の勉強を開始する。2018年に文芸翻訳を第一志望に定め、越前敏弥氏の講座に通いはじめて、いまに至る。アメリアでは2019年にフィクションのクラウン会員資格を取得。訳書にポール・ハーグリーヴス『パーパス・ドリヴン型ビジネス いま世界が求める、倫理的な企業のかたち』(Asia Pacific Publishing Hub)、ケイヴィオン・ルイス『怪盗ギャンビット1 若き“天才泥棒”たち』『怪盗ギャンビット2 愛と友情のバトルロイヤル』(KADOKAWA)、共訳書にフレドリック・ブラウン『死の10パーセント フレドリック・ブラウン短編傑作選』(東京創元社)、ダニエル・トゥルッソーニ『ゴッド・パズル-神の暗号-』(早川書房)がある。今後、さまざまな作家によるさまざまな翻訳ミステリーを積極的に紹介していきたいと考えている。
女の子の冒険物を翻訳
加賀山 :本日お話をうかがうのは、東京都千代田区で出版翻訳をしておられる、廣瀬麻微(ひろせ あさみ)さんです。じつは私、2017年にフェロー・アカデミーの翻訳入門の講座でお会いしているようです(笑)。
廣瀬 :そうなんです。青山の教室で対面授業のころでした。
加賀山 :ということで、「初めまして」ではないんですが、さっそくこれまでのお仕事についてうかがいますと、『ゴッド・パズル 神の暗号』(ダニエル・トゥルッソーニ著、共訳、早川書房)、『怪盗ギャンビット1 若き“天才泥棒”たち』、『怪盗ギャンビット2 愛と友情のバトルロイヤル』(ケイヴィオン・ルイス著、KADOKAWA)がすでに出版されています。

これまでの訳書です。今後どんな作品に出会えるのか、いまから楽しみです。
廣瀬 :はい。それと、越前敏弥先生のもとで勉強していたので、『死の10パーセント フレドリック・ブラウン短編傑作選』(小森収編、越前敏弥・高山真由美・他訳、東京創元社)のなかの短編も訳しました。ビジネス書も1冊ありまして、『パーパス・ドリヴン型ビジネス いま世界が求める、倫理的な企業のかたち』(ポール・ハーグリーヴス著、Asia Pacific Publishing Hub)です。これが翻訳者としてのデビュー作で、2023年5月の出版でした。
加賀山 :ではデビュー作からうかがいましょう。これはどういう本ですか?
廣瀬 :「サプライチェーン上にいるすべての人にとって、よりよいビジネスをしよう」、「ちゃんと利益も追求しつつ、誰かを切り捨てるようなビジネスはやらないようにしよう」という企業の取り組みを評価する「B Corp(ビー・コープ)」という国際的な認証制度があります。フェアトレードに似ていますが、この本の著者は、その認証を初期のころに取得したイギリスの経営者で、どうすれば倫理的で、みんなの利益になるビジネスができるかということを考えています。ちゃんと休暇を取らせてあげようとか(笑)。
加賀山 :ああ、ハラスメントをなくしましょうとか、いまの企業経営の流行を先取りしたような本ですね。その次に訳したのが短編集ですか?
廣瀬 :そうです。越前先生や高山真由美さんに越前門下生4人が加わって、1、2編ずつ訳しています。
加賀山 :これが小説翻訳のデビューでしょうか。訳してみていかがでしたか?
廣瀬 :緊張しましたー(笑)! ただ旧訳があったので、助かったところもあるし、逆に迷ったところもありました。
加賀山 :最初に旧訳を読むとイメージが刷りこまれてしまいますよね。
廣瀬 :そうなんです。なので見ないで訳して、終わったあとで答え合わせじゃないですけど、読んでみたんですが、本当に自信がなくなってしまって(笑)。でも、小説デビューの感激はすごくありました。編者の小森さんが、前菜とかデザートとか、フルコース仕立てで作品のメニューを組んでいて、私の担当はコールドミートでした。
加賀山 :それが2023年9月出版でした。次が2024年3月の『怪盗ギャンビット1』。これはYA(ヤングアダルト)作品ですね。
廣瀬 :はい。表紙は大人っぽいんですけど、YAです。すごく楽しい作品でした。私は子供のころ、『赤毛のアン』などの少女小説や、少女漫画が少し苦手だったんです。むしろ、少年漫画とか、シャーロック・ホームズのような、冒険しながら悪いやつを倒す作品が好きで。『怪盗ギャンビット』は10代の女の子が主人公の怪盗で、世界じゅうを飛びまわって闘う話なので、まさに自分が小さいころ読みたかった物語です。
加賀山 :女の子が怪盗なんですね。これが売れたから続編も出たんでしょうか?
廣瀬 :たぶん(笑)。そう願っています。話は一応、2で完結しますが。
加賀山 :そのあいだに出たのが、『ゴッド・パズル 神の暗号』だったのですね?
廣瀬 :そうです。これは武居ちひろさんという同じ門下生との共訳でした。ひとつの作品の共訳は初めてで、武居さんとは同じ門下なので、漢字の表記や訳語とかは比較的統一しやすかったんですが、調べものが多くて難しかったです。舞台が現代のニューヨークから19世紀のプラハに移動したり、西洋の磁器人形の話や、カバラーというユダヤの神秘主義の教えや、量子力学も出てきたりして……。
ふたりでつねに調整しながらGoogleのスプレッドシートを作って調べていきました。共訳なので、つらさが半分になる面もあれば、調整に時間がかかる面もありましたね。
加賀山 :ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』的な話でしょうか?
廣瀬 :まさにそうです! オカルト系です。でも、心の通じ合う仲間と、翻訳についてとことん議論できたのは貴重な体験でした。
加賀山 :2023年デビューということですから、短いあいだにずいぶん訳書が出ています。急に売れっ子になられた(笑)。フレドリック・ブラウンはおそらく越前さんが声をかけて翻訳者を集めたのだと思いますが、ほかの仕事はどういうふうに開拓されたのですか?
廣瀬 :『怪盗ギャンビット』も出版社から越前先生に依頼が来て、それが門下生にまわってきました。『ゴッド・パズル』も同じように編集のかたから先生に話があって、ちょうど私が空いていたので担当することになりました。
加賀山 :いまは何を訳されていますか?
廣瀬 :女性主人公のコージーミステリーです。取りかかったばかりなのですが、とても楽しい作品なので、いまから刊行が待ちきれません。
翻訳同人誌の制作も
加賀山 :『LETTERS UNBOUND』という翻訳同人誌も作っておられます。いま第2号まで出ているのですね。これはどこで売っているのですか?
廣瀬 :文学フリマってご存じですか? コミケの文学版のようなもので、自分の好きな本を作って会場で売るイベントです。東京では年に2回ありまして、そこでまず新刊を出品し、そのあといくつかの書店さんで扱ってもらっています。
加賀山 :このサイトで紹介されている3人で運営しているんですね。たった3人とはすごい。翻訳するときの版権の取得とかはどうされていますか?
廣瀬 :よく訊かれますが(笑)、著者に直接連絡して交渉するんです。ふつうの商業出版だとよく翻訳の独占権がつきますが、私たちはあえて独占しない契約にしていまして、私たちが訳して謝礼をお支払いしたあと、別の出版社さんから著者に翻訳の申しこみがあったら、そちらに譲ることになっています。
加賀山 :掲載する作品はどうやって探すのですか?
廣瀬 :いろいろですが、ネットが多いでしょうか。「ウェブジン」といって、紙ではなくネット媒体で小説を発表しているケースがけっこうあって、作品をまるごと読めるんです。そういうところに発表している作家さんだと、「ああ、いいよ」と翻訳を許可してくださることが多くて。
加賀山 :連絡先もそういうサイトに掲載されている?
廣瀬 :そうです。作家本人のサイトのURLが掲載されていることが多いですね。あとはだいたい皆さんSNSをやっているので、DMで連絡する場合もあります。それから基本的には、契約関係をきれいにするために、ご本人からエージェントさんにも連絡してもらいます。たとえばウェブジンとかに載っている作品は、最初の1年間とか数カ月はその媒体の独占契約になっていることもありますから、期限が切れていることを確認してもらうんです。
作家さんとは、契約書より少し簡易な「覚書」を取り交わします。私たちよりまえに「バベルうお」さんが『BABELZINE』という有名な翻訳同人誌を出していまして、契約がらみのことはそこのかたたちに相談して、教えてもらいました。

翻訳同人誌「LETTERS UNBOUND」第1便(テーマ「LETTER」)と第2便(テーマ「MONSTER」)です。装幀もすごく気に入っています。
加賀山 :『LETTERS UNBOUND』のかたがたは、どういう経緯で雑誌をやろうという話になったのですか?
廣瀬 :ちょうどコロナの時期でした。あのころ、若手翻訳者だけでビデオ通話をしようと呼びかけている人がたまにいて、ときどきしゃべっていました。そこでお互い知り合ったんです。
加賀山 :そこから「雑誌を出しましょう」となるまでには、けっこう距離があると思いますが(笑)。
廣瀬 :ありますよね。1冊目の発刊のときには、吉田育未さんというすごい行動力のあるかたが声をかけてくれて、4人でやっていたんです。残念ながら、諸事情が重なって、彼女は1冊目で離れることになってしまいましたが。
私自身が参加したのは、早くデビューしたかったからです。いま、ミステリーにしろ文芸系にしろ、無名の新人がデビューするのはなかなか難しいじゃないですか。私もそのころは下訳しかやっていませんでした。
かつ、大手出版社だと訳せないものもあります。とくに短編だと難しくて、いまこの瞬間に届けないともったいない作品があることも自覚していたので、自分たちでやろうということになりました。ちょっと生意気ですよね(笑)。
加賀山 :いえいえ。すると売上収入はいま3人で分けているのですか?
廣瀬 :収入なんてとても(笑)。じつは印刷費や制作費、文学フリマへの参加費とか、なんだかんだでまだ手弁当の状態です。収入が増えれば、本当は著者にもっといい謝礼を払って、そのあと私たちの分に戻ってくるかなというレベルなので。
加賀山 :発行は何カ月に1回ですか?
廣瀬 :それはとくに決まっていません。いまは今年5月の文学フリマ東京で出すことをめざして、第3号を作っています。ずっとテーマ別で作っていまして、1便のテーマは(『LETTERS UNBOUND』なので)「LETTER(手紙)」、2便は「MONSTER(モンスター)」、いま制作中の3便は「FOOD(食べ物)」です。
ミステリーの年間短編アンソロジー、The Best American Mystery and Suspenseの2021年版を1編ずつ読む読書会を、翻訳者の高山真由美さんが主催されていたことがありまして、「MONSTER」のテーマのときには、そこで読んだSWAJという作品を訳しました。JAWS(ジョーズ)の逆の綴りになっていて、あの有名な映画の原作の二次創作です。
じつは4便の企画も立てていまして、テーマは「WORLD(世界)」です。今度は英語以外の言語を訳されている翻訳者さんに作品の選定と翻訳をお願いして、私たちは編集に徹します。著作権の扱いなんかもこちらからアドバイスして、覚書のテンプレートもお渡しするので、それぞれの言語でやっていただこうと。その翻訳者さんがこのまえ4人、決定しました。
加賀山 :地道に発行しているうちにヒットが出て、爆発的に売れるといいですね(笑)。訳した作品の校閲、校正のようなこともされていますか?
廣瀬 :しています。ただ第3者にお願いはしてなくて、私たち3人のあいだで原文と突き合わせて、少なくとも誤訳や読みにくい表現はなくそうと手を入れています。ワードファイルにお互い細かくコメントして、喧嘩にならないようにしつつ(笑)。それでも足りないですけど。プロでデビューして校閲者や編集者のかたがたと実際に仕事をしてみると、自分たちはまだまだだなと思いました。
加賀山 :あと翻訳関係でやっておられることはありますか?
廣瀬 :世話人として読書会を主催しています。私は南東京の読書会の世話人で、場所は表参道の会議室です。いろんな読み方があるのがわかって楽しいし、すごく勉強にもなりますよ。
加賀山 :たしかに。ふだん読まない本も読めますし。運営する側はたいへんですよね。ありがたいことです。
『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで翻訳の世界に
加賀山 :フリーランスで翻訳を始めるまえは会社員をされていたのですか?
廣瀬 :栃木県で高校の英語の教員をしていました。東京に住んでいたいまの夫と結婚することになったので、教員のほうは辞めて、新しいことを始めたいという思いでフェロー・アカデミーに通いはじめました。
加賀山 :2017年にカレッジコースで学び、1年のコースを修了して、越前さんのところでも学んだわけですね?
廣瀬 :そうです。朝日カルチャーセンターで講座を持っておられて、私はフェローのコースの後半から、そっちにも行ってみようと思い、2018年1月から通いはじめました。すると、越前先生からもっとまじめに勉強してみないかと言われまして、下訳の勉強会に入れていただきました。
加賀山 :それはカルチャーセンターとは別ですね。結局、修行時代は何年くらいありました?
廣瀬 :そこから単独の訳書が出るまで5年くらいですかね。

昨年訪れた、NYにあるミステリー専門書店「ザ・ミステリアス・ブックショップ」です。旅先の書店めぐりは最高です。
加賀山 :ほぼ最初から越前さんの手伝いをされていたのですか?
廣瀬 :そうですね。初めて下訳をした本が2019年に出版されました。ですので、私は実務翻訳とか翻訳会社に勤めるといったことはしていなくて、最初から下訳が中心でした。
加賀山 :越前さん訳の『ダ・ヴィンチ・コード』はすでに出ていましたよね?
廣瀬 :はい。ダン・ブラウンは、私が勉強会に入る直前に『オリジン』が出て、そのあと出ていないので、まだ一度もお手伝いしていないんです。私は訳したいんですけどね。
加賀山 :ちょっとちがう経歴として、プロフィールには「2018年度第15回JAT(日本翻訳者協会)新人翻訳者コンテストで第1位を受賞」と書いてあります。これは実務翻訳でしょうか?
廣瀬 :そうなんです。運がよかったんでしょうね。いちばんはフェローのカレッジコースのおかげだと思います。ただ、実務翻訳でもいくつか会社に登録はしましたが、なかなか新人に仕事は来ませんから、もういいかなって。あと、できるだけ早く本を訳したかったので、数年は収入が厳しいかもしれないけど集中して勉強しようと思いました。
加賀山 :なるほど。アメリアに入ったのはいつでしたか?
廣瀬 :フェロー・アカデミーと同時に入りました。アメリアのサイトは、コラムが充実していて楽しいですね。翻訳者のインタビューとか、田口俊樹先生の「翻訳身の上相談室」とか。情報収集にいろいろ役立っています。
加賀山 :フィクションのクラウン会員も取得されていますね。翻訳に関して、ほかに勉強されたことはありますか?
廣瀬 :本はたくさん読みました。翻訳関係の本も含めて。いまも翻訳書、和書の区別なくできるだけ読むようにしています。あと勉強としては、原文と訳書を照らし合わせて研究のようなこともしました。
加賀山 :私もそれがいちばん勉強になると思うんです。自分の体験として、学校にかよっていたときに師匠の田口俊樹さんの訳書と原書を照らし合わせて読んで、すごくためになったので。でも皆さん時間がないのか、あまりやらないんですよね。
落語や歌舞伎の稽古では、弟子が師匠のまえで演じて、師匠が「そこはちがう。こうしなさい」みたいに指導するじゃないですか。それが翻訳の場合、原書と訳書を取り寄せるだけでできるんだから、こんなに便利なことはないと思うんですが。
廣瀬 :どこでもできますしね。私、ひょっとしたらそのやり方を加賀山先生から聞いたのかもしれません。誰かから「これやるとよかったよ」と教わったので。
加賀山 :でしょうか。突き合わせて勉強したのは、やっぱりダン・ブラウンですか(笑)?
廣瀬 :そうです。下訳や勉強会の課題はエラリイ・クイーンが多くて、それはそれで勉強になりましたけど。大学生のときに初めて『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで、それがおもしろくて翻訳物を本格的に読むようになったんです。だからカルチャーセンターにも申しこみました。ただ、いまはわりと女性作家が書いた女性主人公のクライムノベルが好きですね。
加賀山 :ロマサス(ロマンティック・サスペンス)とかも?
廣瀬 :あ、ロマンスはなくていいんです(笑)。ロマンスより冒険や犯罪のほうが好きです。サラ・パレツキー作品のV・I・ウォーショースキーみたいな探偵には憧れちゃいますね。それと最近、オーディオブックにはまっています。
加賀山 :私のまわりでも聞いている人がいます。いつ聞くんですか? 家事とかしながら?
廣瀬 :そうです。無心でやる作業ってけっこうありますよね。たとえば皿洗いとか、洗濯物をたたむとか、掃除、化粧とか、あとは、出かけるときの行き帰りの電車ですね。私が耳から聞くのが好きなだけかもしれませんが、意外と内容が入ってきます。
加賀山 :たしかにオーディオブックなら、両手でほかのことができますからね。でも、目で読むほうが明らかに速いじゃないですか。聞くのはかったるくありませんか(笑)?
廣瀬 :読解力がある人たちは遅く感じると思います。なので、これは大きな声では言えないんですが、2倍速ぐらいで聞いても大丈夫です(笑)。
加賀山 :その手があったか!
廣瀬 :だめだと言われますけど、ナレーターのかたはプロなので、速くしても充分理解できますよ。
加賀山 :配信ドラマを早送りするのと同じですね。それなら私も使えるかもしれません。
早川書房の《ミステリマガジン》洋書案内《英語篇》のコーナーにもときどき寄稿されていますね。原書も読んでおられますが、今後はどんなものを訳したいですか? やはり女性主人公の冒険物?
廣瀬 :そうですね。サスペンス、ミステリー、クライムノベルがいいです。『ミレニアム』シリーズのリスベットが私の永遠のヒロインなので——ヒーローと言ってもいいかも(笑)。
■ 好きこそ物の上手なれ。ですが、その裏には努力もあれば、物事をまえに進めるバイタリティも感じられます。『LETTERS UNBOUND』のSWAJ(日本語タイトル「ズーョジ」)も楽しみに読ませていただきますね!