平澤 靖美さん
実務翻訳から出版翻訳へ
プロフィール
高校卒業後にアメリカの大学・大学院へ留学。卒業後は帰国して外資系企業で勤務したのち、国際協力の仕事に就きたくてJICAへ勤務。しかし体調を崩したため在宅の仕事を求め、2011年にフリーランスの翻訳家となる。実務翻訳で収入を得つつ、憧れの出版翻訳を目指してフェロー・アカデミーの講座を受け、2021年に初めての訳本が出版される。子育てでほとんど仕事にならない時期もあるが、その時の状況に合わせて実務翻訳と出版翻訳のバランスとりながら翻訳の仕事を続けている。
明治時代に翻案された小説家の翻訳も
加賀山:今日は、東京都で出版翻訳をされている、平澤 靖美(ひらさわ やすみ)さんにお話をうかがいます。
プロフィールを拝見すると、2011年からフリーランスで実務翻訳をされ、現在は出版翻訳のみということですね。
平澤:そうです。もともと会社勤めをしていたんですが、体調を崩したことをきっかけに、フリーランスの翻訳家になろうと決めました。出版翻訳への憧れのようなものがありましたが、最初はやり方もわからなかったので、実務翻訳の仕事から始めて、そのあいだに学校で出版翻訳の勉強をして、少しずつ出版翻訳を増やしていきました。
加賀山:訳された本でいちばん新しいのは、『感情表現という言語を読み解く』(マーク・チャンギージー、ティム・バーバー著、誠信書房)でしょうか? 訳者名が益田靖美になっていますが……。
平澤:旧姓です。本に名前が載るときには益田でお願いしていて。
これは認知科学の本です。私もくわしいわけではありませんが、認知科学とは、人間が何をどう受け取って、なぜそういう行動をするのかを研究する学問だそうです。この著者は、進化という観点から独創的な説をいくつか発表していて、この本では、なぜ人は感情表現をするのかといったことを研究しています。
人間は、思っていることが外に出る、たとえばうれしいからうれしい顔をするということではなくて、うれしいと思っているのを相手に伝えるためにそういう顔をする。なぜかというと、それを相手に伝えて交渉するためらしいんですね。つまり、「自分はいま、うれしいと思っているぞ」と相手に伝えることで、交渉を動かすという考えです。
この本にはズッキーニブレッドというお菓子を友だちと取り合うシーンがよく出てきますが、僕はズッキーニブレッドの3分の2が欲しい、君も3分の2が欲しいというときに、お互い感情表現をしながら妥協点を見つけるわけです。それを細かくいろんなパターンに分けて説明しています。
加賀山:感情表現というのは、顔の表情とか動作ですか?
平澤:はい。ボディランゲージとかすべて含まれます。ただ、この本では主に顔の表情に注目して説明しています。
加賀山:それらが自然に出てくるわけではなくて、相手に伝えるために表現するということですね。
平澤:それは自然に出てくるものなのですが、進化の過程で人間が身につけた力だというのが、この本の主張です。
加賀山:なるほど。おもしろそうです。そのまえに出たのが、『オンライン・インフルエンス』(B・ボウタース、J・フルン著、誠信書房)でしょうか。
平澤:これは心理学がベースになっていて、eコマース、オンラインショッピングのサイトを設計する人向けに書かれた本です。どうすればみんなが自分の商品を買ってくれるか、つまり、こちらの思ったとおりにクリックして、商品をカートに入れて、決済まで行ってくれるかということを、心理学の立場から解説しています。心理学寄りのハウツーものという感じです。
加賀山:マーケティングの要素もありますね。2冊とも同じ出版社から出ていますが、どうやってつながりができたのですか?
平澤:『オンライン・インフルエンス』は、アメリアのスペシャル・コンテストに応募して、お仕事をいただけることになりました。そのころはいくつか応募していて、たまたまこれに合格したんです。
この本が出たあとしばらくして、『オンライン・インフルエンス』の編集者の方が紹介してくださったようで、同じ出版社の別の編集者の方からお話をいただいたのが『感情表現という言語を読み解く』です。

仕事用の机がないので、日中に子供の勉強机を借りて仕事をしています。
加賀山:翻訳会社を介してではなく、直接出版社とやりとりされている?
平澤:そうです。なぜコンテストに応募したかというと、アメリアにカウセリングのサービスがあって、翻訳者の悩みに直接アドバイスをいただけるんですね。当時、実務翻訳の仕事はそれなりにやっていて、出版翻訳も、先生や知人を介した下訳の経験もいくつかあったのですが、どうしても自分の名前での出版翻訳につながらなくて、どうしたらいいんだろうと悩んでいたので、そのカウンセリングで相談したところ、「出版社と直接つながったほうがそのあとの仕事につながる。スペシャル・コンテストに応募してみたらどうですか?」と勧められたんです。それで、ひと月に1件ぐらいですが、いくつか受けていたら、合格しました。
加賀山:アメリアが仕事を広げるのに役立ちましたね。
平澤:すごく役立ちました(笑)。
加賀山:そのまえは、OECD(経済協力開発機構)の本を訳されたのですか? 『図表でみる教育 OECDインディケータ(2025年版)』(明石書店)という訳書が出ています。
平澤:これもスペシャル・コンテストなんです(笑)。毎年、OECDの教育の報告書が出るので、その日本語版を明石書店さんが出していますが、かなり分厚い本なので、5、6人で分担して、ひとりリーダーの方が取りまとめて1冊を訳します。私はスペシャル・コンテストで2022年版に合格したあと、ありがたいことに毎年声をかけていただいています。
加賀山:教育白書みたいなものでしょうか。世界の教育の現状はこうなっていますというような?
平澤:そうです。世界各国の教育方針や予算のかけ方の違いがわかり、日本の立ち位置などもわかるので、とても興味深いです。
加賀山:同時期にコンテストに応募していたのが、いろいろ実を結んだのですね。いま訳しておられる本はありますか?
平澤:いまは、ヒュー・コンウェイという19世紀後半に活躍したイギリス人作家の短編を訳しています。これは出版社と直接つながっているのではなく、翻訳学校時代の知り合いの方がプロジェクトのようなかたちで進めていまして(早稲田文庫プロジェクト)、短編集になる予定です。
話せば長くなりますが(笑)、その方が、明治や大正時代に出た翻訳小説や翻案小説を読みやすいかたちで復刊する活動をしていて、当時書かれた文章のまま出す場合と、新訳にして出す場合があります。わかりやすいものですと、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズは、当時日本で翻案小説として新聞に掲載されたものを、文章は変えずに読みやすく編集し直して出版されています。すでに何冊か出版されていて、次はヒュー・コンウェイの短編集にしようということで、翻訳のお話をいただきました。
加賀山:それが昔、翻案のようなかたちで出ていたのですか?
平澤:この短編集は出ていません。かつて、ヒュー・コンウェイの『ダーク・デイズ』という作品を、黒岩涙香が翻案して『法庭の美人』というタイトルで新聞に掲載していました。この作品については、今回のプロジェクトで翻案を読みやすく編集し直したものも、新しい翻訳も出版されています。その流れで、日本では紹介されていなかった彼の短編集も出そうということになりました。
加賀山:完全に新しいプロジェクトなのですね。実務翻訳のほうは、いまは完全にお休みですか?
平澤:いまはやっていません。子育てがたいへんで(笑)。収入という意味では実務のほうが安定しているので、できればやりたいんですけど、手がまわらなくて、いまは目のまえにあるものだけをやろうかなと。
加賀山:実務翻訳はどういうものを訳しておられましたか?
平澤:昔JICA(国際協力機構)で働いていたので、まず国際協力関連の仕事から入りました。開発途上国の状況やそこで進められるプロジェクトの報告書を訳していましたが、それもそんなにたくさんあるわけではないので、徐々にビジネス翻訳というか、企業のいろいろな文書を訳すことが増えていきました。
一時期はある会社の翻訳チームに入って、社員ではないんですけれども、専属でいろんな国の市場分析、たとえば不動産市場とかファッション市場とか、あらゆる分野の分析の英語の報告書を日本語にしていました。
加賀山:実務翻訳は何年ぐらいしておられましたか?
平澤:10年ぐらいでしょうか。出産のあと1、2年、仕事をしない時期もありました。
国際協力の仕事から翻訳へ
加賀山:経歴についてもう少しうかがいます。実務翻訳をやりながら学校で学ばれたそうです。フェロー・アカデミーに通ったのですか?
平澤:はい。通信講座の「はじめての出版翻訳」のあと、出版翻訳の上級クラスに3年ほど通いました。真崎義博先生のクラスです。

机から見えるけやきの大木。春は若葉にいやされます。
加賀山:JICAに勤めるまえから翻訳の仕事はしたいと思っていたのですか?
平澤:じつは思っていませんでした(笑)。もともと国際的な場で仕事をしたいという気持ちはありましたが、とくに英語が好きというわけではなくて。英語を使った環境にはいたかったんですけど、たとえば通訳になりたいとか、英語教師になりたいとは思っていませんでした。
でも、会社勤めと、そのあとJICAで働いたときに体調を崩してしまい、一度自分の仕事を見つめ直しました。それで、翻訳なら自分の家で、自分のペースで働けるかなと思ったのがきっかけでした。
加賀山:JICAのまえには企業に勤められたんですね。新卒で最初からJICAに就職できるのかなと思ったもので……。
平澤:新卒でも入れますが、私は新卒で応募したときにはだめで(笑)、一般企業に就職しました。ただ、やっぱり国際協力の仕事がしたいということで、3年契約の嘱託職員のようなかたちでJICAに入ったんです。
加賀山:プロフィールには、文芸作品やビジネス書の下訳の仕事もあげられています。これはフェロー・アカデミーに通っていたころに先生の手伝いをされたということですか?
平澤:はい。それもありますし、知り合いに翻訳者を紹介してもらってお手伝いしたこともあります。下訳は2、3年のあいだにまとめてやった気がします。最初は一部分だったのが、だんだん半分とかまるごと1冊を訳すようになって、「これはそろそろ出版翻訳でいけるかな?」(笑)と思っていたら、妊娠・出産で翻訳をする時間が取れなくなってしまい、そこからけっこうあいだが空いてしまいました。
それでしばらく実務翻訳をやっていて、今後のことについてアメリアのカウンセリングに相談したんです。
加賀山:そういう流れでしたか。あと実績のところに、『JPEGブライド』(APC研究会)とありますが、これはどういう本でしょう?
平澤:これはちょっと不思議な話でして、出版社からではなくて、想隆社というシステム会社が、オンデマンド出版をするためのシステムを作って、その実証実験みたいなかたちで本を訳して出したんですね。
これも知人から紹介されたプロジェクトですが、私としては初めての出版翻訳の仕事でした。ただ、なにしろ出版社から出ていないので、検索してももう出てきません(笑)。アメリカ人の男の子が日本人の女の子に恋をするというような恋愛小説でした。
関心分野が広がる
加賀山:今後はどういう仕事をしてみたいですか?
平澤:もともと翻訳を始めたのは、フィクションを訳したいという気持ちからでしたが、最近の仕事はノンフィクション、学術系の本が多くなっています。『感情表現という言語を読み解く』も『オンライン・インフルエンス』もそうですね。それがけっこうおもしろくて、自分に向いているのかなと思うようになりました。
あとリーディングのお仕事でも、学者さんが書いたようなノンフィクションがありまして、読んでみるとおもしろいんですね。それをわかりやすく、伝わりやすく日本語にするのも、性に合っているのか楽しくて、翻訳も進むので、いままでフィクションばかり見ていたけれど、こういう分野もいいなと考えはじめました。
加賀山:翻訳の仕事は、どういう分野の依頼が来るのかわからないところがあって、そこから興味が広がることがありますよね。
平澤:そうですね。あとこれは夢に近いんですけど、児童文学、たとえば小学生や中学生が読むような本を訳したいなと思っています。私も子どものころから本が好きでしたが、日本人作家が多かったんですね。そのころ読んだ海外の話はなんとなく読みにくくて、頭に入りにくかったというのがあります。
でも、最近自分の子どもが小学生で、そういう本を目にすることが増えると、子ども向けの本でもおもしろいものがいっぱいあるんですね。そういうものが手に取りやすくなるといいなと思うので、翻訳で貢献できればうれしいです。まだぼんやりとした夢ですが。
加賀山:それは児童向けのノンフィクションではなくて、物語ですよね。子どものころよく読んでいたのはどういう本ですか?
平澤:何でしょうね……最初に好きだと思ったのは『オズの魔法使い』(ライマン・フランク・ボーム著、河野万里子訳、新潮社他)。海外作品ですが(笑)。あとは、『ルドルフとイッパイアッテナ』(斉藤洋著、講談社)のシリーズとか。『モモ』(ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波書店他)もよく憶えています。なんだか結局、海外の話になってますけど(笑)。
加賀山:記憶に残っているのは海外作品が多いのかもしれません。
平澤:あとはふつうに女の子が好きそうな恋愛小説とかを読んでいました。
加賀山:今後実務も続けたいというお考えは?
平澤:出版翻訳でどこまでやれるかによりますね。できれば出版のほうでそこそこの収入を確保できればと思っていますが、むずかしそうだったら、実務に戻ることも考えています。
加賀山:実務翻訳をされていたときには、複数の翻訳会社と契約していたのですか?
平澤:何社か契約していましたが、同じ時期に重なることはほとんどありませんでした。だいたい1社から仕事をいただいて、出産なんかでちょっと途切れると、また別の1社とのやりとりが始まるといった感じで。
加賀山:あと何か皆さんにお伝えしたいようなことがありますか?
平澤:そうですね……私の経歴を振り返ると、子育てとの両立はけっこうたいへんでしたね。家にいるから便利なときもあれば、家に子どもといると仕事に集中できないときもあります。いまもそうですが、そこがフリーランスのむずかしさというか、自分で調整できるからこそなかなかむずかしい面もあって。そういう思いはずっと抱えています。
加賀山:たしかに。家で働いていると幼稚園には預けられないんでしたっけ?
平澤:幼稚園は働いていなくても誰でも預けられますが、保育園に預けるにはちゃんと働いているという証明が必要で、フリーランスの場合には収入の証明をしなければいけません。「出版翻訳の下訳をやって数カ月で数万円もらいました」では保育園には入れないんですよ。それでかなり悩んだ時期もありました。報酬の入金時期をずらしてもらって調整したこともあります。
そういう意味では、実務翻訳で毎月ある程度の収入があると助かるので、子どもが小さいころには実務のほうに力を入れていたという事情があります。
加賀山:そういうことなんですね。
平澤:いまは子どもたちも小学生ですし、収入の証明も必要なくなったので、出版翻訳をある程度自由に、ちょっとお金にはならないけどやってみることができています。
加賀山:昼間はお子さんも学校に行っていますしね。翻訳は自宅でできるということで職業として考える方もいらっしゃいますが、かならずしも思ったようにはいかないということですね(笑)。

昔からの友達とのお茶会でエネルギーチャージ。みんな子育てと仕事の合間を縫って日程を合わせるので、数ヶ月に一度のお楽しみです。
平澤:そうなんです。それはそれでむずかしいですよね。家にいて子どもが泣いていたら相手をしなきゃいけないし。会社勤めで外にいたらそんなことはしないわけですが(笑)、家にいるからこそ時間がとれない、ということはあります。
加賀山:このインタビューでいろいろお話を聞いていると、実務翻訳や映像翻訳で一定の収入を確保しながら、チャンスがあれば出版翻訳を、という方が多いと思いますが、それを実現した翻訳者としてアドバイスのようなものがあれば?
平澤:立場にもよると思います。どれだけ自分の収入をきちんと持たなければいけないか……。私の場合、主人の収入もありますので、そこまで切羽詰まっていないから、いまはちょっと出版のほうでがんばってみようというかたちでできています。ただ、状況はどうでも、いま収入源になっているものはしっかりと持っておいたほうがいいと思います。
加賀山:そうですよね。
平澤:私も、実務翻訳でやってきた経験があるからこそ、いざとなったら実務のほうに戻れるという気持ちでやっています。収入を気にしなければいけない立場だったら、まず収入を得られるものを確保して、そのうえでやりたい分野に挑戦するのがいいんでしょうね。そうすれば安心感というか、「いまは挑戦する、失敗しても自分にはこれがある」という気持ちになれるので、思い切った挑戦もできると思います。
ちょっと偉そうなことを言ってしまいました(笑)。私自身、ぐらぐらでぜんぜん安定してないんですけど。
加賀山:出版翻訳は収入の入り方に山と谷があるじゃないですか。だから年収で見ればそれほど悪くなくても、ある月のキャッシュフローがまわらなくなることがありますよね。保険の掛け金が落ちるときに口座の残高が足りないとか(笑)。
平澤:ほんとですよね。そこをほかの何かでカバーできれば安心です。
■ 堅実に考えながら出版翻訳に移行してこられたのがわかります。収入の確保、とても大事ですね。これからさらに興味のある分野が広がって、お仕事も楽しくなりそうですね。





