小野 悦子さん
チャンスを活かしてさまざまな分野の書籍を翻訳中
翻訳コーディネーター・チェッカーとして実地で学ぶ
加賀山 :今日は、実務翻訳から出版翻訳に進んでご活躍中の小野智子(おの ともこ)さんにおいでいただきました。多彩なお仕事をされていますが、最初はどのようにして始まったのですか?
小野 :偶然というか、成り行きといいますか、最初に翻訳の入口に立ったのは1998年ごろでした。とくに翻訳者になりたいと思っていたわけではなく、特別な勉強もしていませんでした。
1997年に6年半のヨーロッパ滞在から帰国して、主婦をしていたのですが、コンピュータに触ったことがないというハンデがありまして、なかなか仕事が見つからず、困ったときに雇ってくださったのが、たまたま英文の校閲をやっている小さな会社だったのです。
加賀山 :出版社から校閲の仕事を請け負っているような?
小野 :いいえ、非常にニッチなことをしている会社でして、英文の学術誌、それも機械、化学、数学、環境学といった分野の学術誌を出版したり、研究者の書く英語の技術論文の校閲をしたりするのです。
いちばん助かったのは、その会社に優秀な大学生のアルバイトの人たちがいて、コンピュータの使い方を丁寧に教えてくれたことでした。おかげでウィンドウズもマックも使って、ページメーカーで版下を作るところまでできるようになりました。あれがなかったら、いまでも専業主婦だと思います。(笑)
加賀山 :その会社にいたのは何年くらいですか?
小野 :5年ですね。そのうち電子機器の新製品を紹介する記事や、医学論文の英訳などもやらせてもらうようになったのですが、もともと専門分野ではありませんから、さすがに疲れてしまいました。もう少し自分に合っているというか、楽にできる仕事はないかと探したところ、これもたまたま、自宅の近くに小さな翻訳事務所があり、雇っていただけることになったのです。
そこで12年間、翻訳コーディネーターやチェッカーとして働きました。ほかの翻訳者にお願いできなかったものを自宅に持ち帰って、日本語に訳したりもしました。ファッション、スポーツ、グルメ、料理レシピ、旅行ガイドといったさまざまな仕事をすることで、自分自身の力もついたのだろうと思います。
英訳ではなく和訳のほうが私には向いていると確信したのも、その会社にいたときでした。
加賀山 :自宅に持ち帰った仕事は、別に報酬がもらえたのですか?
小野 :はい、単価は少し低くなりますが、外部に発注したのと同じ扱いでした。小さな会社だったので、社員みんながそんな感じで働いていました。
とくに勉強になったのは、会社が毎月請け負っていたハーバード・ビジネス・レビューの翻訳ですね。当時、記事を村井章子さんが訳しておられて、私がチェッカーだったので、原稿をご自宅に直接受け渡しにいったりしました。
加賀山 :それは勉強になりますね、原文と訳文を突き合わせるわけですから。
小野 :そうなんです。お金をいただきながら勉強していたようなもので。(笑)
ちょうど村井さんが実務翻訳から出版翻訳に仕事を広げていた時期で、いま振り返ると、あの仕事ができて本当によかったと思います。
その翻訳会社には、広告代理店からもよく仕事が来ていて、会社案内やホームページの翻訳なども手がけました。社の方針として、原文に沿った固めの翻訳をめざし、細かくチェックをしていたので、それもいまに活きていると思います。「仕事」として翻訳に接したのもそこからでした。
ボランティアからのスタート
加賀山 :12年間勤めて、その翻訳会社を辞められた。
小野 :私の生活状況も変わりましたし、会社も10年たてば変わります。不景気の影響もあって業務縮小となり、社員ではなく外注先のひとりとして同じ仕事を続けることになりました。いまもこの会社とは仕事上のおつき合いがあります。
加賀山 :そこからフリーランスになって、いかがでした?
小野 :営業のしかたもわかりませんし、すぐに新しい仕事もないので、考えた末、ボランティアから始めることにしました。
じつは1997年に帰国したときにも、ボランティアをしていたのです。年齢や経験のハンデもあって、職探しをしてもなかなか見つからなかったときに、ちょうど長野オリンピックがあり、学生時代は競技スキー部でしたので、一般市民によるボランティアに申しこんでみました。パラリンピックのほうで400人のキャンセル待ちと言われたのですが、申しこむとすぐに電話があって、距離競技会場のアシスタントアナウンサーに配属され、天気やコースコンディションを日本語と英語で放送しました。それが生まれて初めての「語学の仕事」デビューでした。そこで希望を取り戻し、学校にかよって英検準1級を取り、それを履歴書に記入して、最初の英文校閲会社に採用されたのです。
次の職場の翻訳会社でも、たまたまオリンピック関連の仕事を請け負っていて、応募要項や候補都市選考基準の書類の英訳・和訳に携わることができました。
加賀山 :ボランティアから道が開けたのですね。
小野 :私は仕事というのはぜったいにお金をもらうべきだと思っているので、ボランティアは無報酬ですが、お金の代わりに何か得られるもの、形として残るものがある仕事を選びました。
フリーランスになって、まず選んだボランティアは、低開発国の子供を支援する世界的に有名なNGO(非政府組織)の記事や報告書を訳す仕事でしたが、ここは事務局がものすごくしっかりしていて、現地の地名や官庁名などを網羅した用語集や、人口などの背景情報が完璧に電子版でそろっていました。まったく現地のことを知らない翻訳者でもとりあえず仕事ができて、しかも資料がきちんとアップデートされている。こちらがまちがうと、かならず事務局からフィードバックがあって、とてもいい訓練になりますし、その種の資料の作り方も学べました。
もうひとつ、アメリア経由で申しこんだボランティアで、一般家庭向けの医学書の翻訳チェックもやりました。医学専門のかたが訳したものを、ふつうの人が理解できるように手直しする半年くらいの仕事でしたが、そのプロジェクトが終わったとたんに、請け負っていた京都の翻訳会社から、今度は正規の仕事をお願いしますということで、看護師さん向けの教科書や危機管理のガイドブックの翻訳を依頼されたのです。ノーベル平和賞を受賞した医師の著作を広島医師会が出版するというプロジェクトもあって、翻訳を共訳で手がけることになりました。
結果的に、ボランティアがすべてその後の仕事に役立ちました。
加賀山 :そういう勘が働くところがうらやましい。
小野 :じつはそのノーベル平和賞受章者の本の翻訳がけっこうむずかしくて、共訳者のかたがひとり減り、ふたり減りしたのですが、私はしぶとくがんばって、ぎりぎり納期に間に合わせました。訳書に名前は出ませんでしたが、それが初めて翻訳した出版物で、活字になった自分の訳文を見てすごくうれしかった思い出があります。
ボランティアから始まっても、仕事をひとつずつ一生懸命やっていけば、次につながるんだなと感じた出来事でした。いい仕事が身になって、また次の仕事に活かせるという実感がありました。
限界を感じる仕事にも挑戦
加賀山 :翻訳の学習はもっぱら実際の仕事からでしたか?
小野 :いいえ、フリーになったあと、アウトプットばかりでインプットがないのでどうしようかなと思っていたら、たまたまナショナルジオグラフィック社の翻訳教室が目にとまったのです。それまでほかに通信講座を受けたことはあったのですが、結局長続きしなかったので、ここで通学してみようと思い立ちました。
加賀山 :「たまたま」がかならず次につながりますね。
小野 :そうですね。ちょうど、翻訳はどこまで意訳が許されるのだろうかとか、出版物の翻訳は自分がチェッカーとして見てきた翻訳と同じでいいのか、ちがうふうに訳すべきなのかといった疑問を感じていたときでした。
2013年に10カ月ほど学校にかよって、そういうもやもやした疑問が解決し、しかも講座が終わったときに、ナショナルジオグラフィックから翻訳の仕事をいただくことになりました。
加賀山 :卒業生みんなにそういうお話が来るわけではありませんよね?
小野 :全員ではありませんね。とても幸運だったと思います。それは4人の共訳で1冊訳してみませんかというお話でした。そのあと2人の共訳でまた1冊訳して、ヒットしたのでまた1冊というふうに、立てつづけに3冊出ました。
加賀山 :『絶対に行けない世界の非公開区域99』、『絶対に見られない世界の秘宝99』、『絶対に明かされない世界の未解決ファイル99』ですね。けっこう速いペースでしょうか。1年に1冊以上?
小野 :1年に2冊のペースでした。それを訳しながら、少し分野を広げようかと思っていたときに、アメリアのスペシャルコンテストで見かけたのが、のちに『2050 近未来シミュレーション 日本復活』(東洋経済新報社)になる本のトライアルでした。
専門家ではなく私みたいな一般人向けの軽い読み物だろうと思ってトライアルを受けたのですが、いざ合格して訳しはじめると、これがもうたいへんで。
加賀山 :むずかしかった?
小野 :自分の限界を知ってしまうような仕事でしたね。ただ、よかったのは、著者がアメリカ商務省を退任してシンクタンクを立ち上げたかたなのですが、日本に来られたときに会ってお話ができたことです。ふだんはずっと家での仕事なので、ちょっと外の世界に触れられました。あと、それまで以上に訳す本の読者について考えて、いつもとちがう用語や文体で書くことも学べました。
加賀山 :限界というのは、どのあたりですか?
小野 :分野ですね。とりあえずなんとかなるだろうという気持ちだったのですが、経済、軍事、農業、外交、安全保障など、あらゆることについて書かれていました。冷戦以降の国際関係についてもかなり知識が必要で、しかも訳しているあいだにも南シナ海をめぐる状況などが刻々と変わっている時期でした。正直なところ、あまりに辛くて、お引き受けしたことを後悔しましたが、受けたからには全力を尽くしました。振り返ってみると、この挑戦が次のステップへのブレークスルーになったように思います。
また、その本を訳したことで、得意分野というのを持たなければいけないなとも思いました。
加賀山 :得意分野、お好きな分野はどこでしょう。
小野 :なかなかチャンスはありませんが、できれば料理や旅行、生活文化の仕事がしたいですね。日本でいえば《家庭画報》的な内容です。
大学では住居学専攻で、卒業後に住宅設計やインテリアデザインの仕事もしていました。建築士、インテリアコーディネーター、厨房設計士の資格も持っています。無類の食いしん坊で、飲むこと、料理することが何よりも好きなのです。
仕事としてできるかどうかは、やってみないとわかりませんが、そういうなじみの分野であれば、訳文を豊かにするとか、日本語の表現のほうにいまよりも力を入れられるのではないかという気がするのです。いまはまるで過酷な耐久レースのようですから。(笑)
加賀山 :ナショナルジオグラフィックの「記事」のほうは訳されないのですか?
小野 :雑誌の記事のほうは、ベテランの翻訳者が担当なさっていて、新しい翻訳者にはかなりハードルが高そうです。ただ、ナショナルジオグラフィック日本版の創刊20周年を記念してウェブサイトの改編がありまして、翻訳記事を増やすことになったときに、『90億人の食』という最初の特集記事の翻訳を担当させてもらいました。テーマが「食」だったので、これは運命だと思って、楽しく訳せました。
どんなことにも全力で取り組む
加賀山 :いまは何社ぐらいから受注しておられますか?
小野 :おもに3社です。とはいえ定期ではなく単発の仕事で、締め切りも厳しいので、出版にたずさわるようになると、どうしても出版が中心になってしまいますね。体力的にも無理がきかなくなってきました。出版の仕事についても、ちょっとやり方を考えなければいけないなと思っています。
加賀山 :すると、いまは出版のみですか?
小野 :はい。ちょうどいまは、世界の帝国の歴史に関する本のゲラを読んでいるところです。また山川出版社の世界史の教科書から読み返していますが、こうしていろいろやっているうちに得意分野もできるのかもしれません。
私はチェッカーの経歴が長かったので、訳文を読めば、ほかの人のものでも自分のものでも、怪しいところはすぐにピンとくるのです。でも、自分の訳文については、そもそも怪しいところを減らす英語の基礎力も改めて身につけたいと思っています。
加賀山 :勉強の話が出たところで、これから出版翻訳に進みたいと思っているかたにアドバイスはありますか?
小野 :「来るものは拒まず」ですね。プロと呼ばれるようになったら基本的に無償の仕事はしないとしても、自分にとって意味のある仕事であれば、ボランティアでもいい。つまり、一方的にこちらが持ち出しになる仕事はしないという前提で、好き嫌いをせずに仕事のオファーは受けるということです。そして全力で、誠実に取り組む。自分が新人だと感じているうちは、どんな値段の仕事でも、トライアルでも、何かの勉強をするときでも、100%の力を出すことです。
加賀山 :取り組む分野についてはどうですか?
小野 :医学とか、経済とか、最初から専門分野があれば別ですけれど、そうでなければ、最初から分野は絞らないほうがいいと思います。
翻訳者になる! と当初から目標を明確に定め、効率よく学ぶのは大切ですが、ともすると、資格をとったり外国語を磨いたり、どうやって仕事を得るのかといったことばかりに振りまわされて余裕がなくなり、視野が狭くなりがちなのは私も実感しています。
テクニックや技術を磨くとともに、何に対しても好奇心を失わず、広い視野で世の中を眺めることが、長い目で見ると結局はよい仕事につながるのではないでしょうか。いまはちょっと無関係に思えたとしても、目のまえに示された道や、差し出されたチャンスをしっかりつかみとり、ひとつずつ完遂していけば、おのずと翻訳者への道は見えてくると思います。
加賀山 :そういえば、私もミステリーが訳したくてこの道に入ったのですが、ほかに声をかけていただいた別分野の本を訳しているうちに仕事の範囲が広がりました。
小野 :もう少し具体的なアドバイスがあるとすれば、「訳文をかならず音読してみること」でしょうか。先輩や先生がたから勧められた方法です。声に出して読んでみることで、自分の文章を客観的に「俯瞰する」ことができるのです。数字や人名のまちがい、誤記などの初歩的なミスのほかにも、原文に引きずられて翻訳調になっていたり、論旨が不自然な部分がびっくりするほどあらわになりますよ。翻訳のクオリティを上げる、とても有効な方法だと思います。
■ 「たまたま○○した」と何度かおっしゃっていましたが、その偶然をしっかり活かして全力を尽くしてきたからこそ、いまの実績があるのだと思いました。見習いたいものです。以前は毎日水泳をなさっていたとのこと。インタビューのあとでうかがった高飛びこみの話(ぬかみそに両手で穴をあけるイメージ!)が忘れられません。