アメリア会員インタビュー

笠井 拓さん

第137回

思いきった決断と覚悟で、実務翻訳の世界に笠井 拓さん

Taku Kasai

翻訳者思いの会社とめぐりあって

加賀山 本日は、昨年からフリーランスで実務翻訳をしておられる、笠井拓(かさい たく)さんにおいでいただきました。まず、いまのお仕事の内容からうかがえますか?

笠井主にIT関係のマニュアルや、ビジネス文書、トレーニング資料、販促ビデオスクリプトなどの翻訳とチェックをしています。いちばん多いのは、パソコンなどのハードウェアのマニュアルの和訳とチェックですね。

加賀山 すべて翻訳会社から来る仕事ですか?

笠井はい。フリーランスではありますが、翻訳会社1社と「常勤」の契約をしていまして、日中、何時から何時までは勤務というかたちをとっています。

加賀山 オンサイトで働くのですか?

笠井いいえ。最初の半年はオンサイトでしたが、いまは在宅です。私自身はそれまで実績がなかったのですが、未経験の翻訳者でも積極的に採用してくれる翻訳会社でした。

加賀山 トライアルを受けたのですか?

笠井はい、アメリア経由でトライアルを受けて合格しました。翻訳の仕事は、最初に何か実績になるチャンスをつかむのがむずかしいので、このような形で契約ができて助かりました。

加賀山 そうなんですよね。多くの求人が「経験者希望」なのですが、最初は当然みんな未経験なわけで、どうやって始めればいいのかわからない。

笠井その点、いまの会社は未経験でも採用してくれましたし、勤務も常勤扱いで毎月一定の収入がありますので、非常にありがたいです。

加賀山 契約社員に近い扱いですね。報酬は出来高ですか? それとも給与?

笠井時給で報酬が出ます。会社に始業と終業の連絡を入れて、あとは月締めで勤務時間のワークシートを提出します。

加賀山 それは初めて聞きました。ふつうは文字数とかで支払いますよね。家で働くけれど、実質的には会社に勤めているような感じでしょうか?

笠井そうですね。働いている時間は自己申告ですから、信頼関係は必要ですが。でも、会社としては、オフィススペースなしで対応可能な翻訳者をキープしておけるし、翻訳者のほうは、働いたぶんだけ時給で報酬をもらえるということで、お互いにメリットがあるアレンジだと思います。

加賀山 その会社は常時複数の翻訳者を確保しているのですか?

笠井はい。基本的には案件ごとに何人か担当する翻訳者が決まっていますから、コミュニケーションをとり合いながら仕事をすることもあります。クライアントからフィードバックがあったときには、今後こういうところに気をつけましょうというふうに、翻訳者とチェッカーの間で情報を共有します。クライアントとしても、翻訳者がだいたい固定されていれば、安定した品質が得られるというメリットもあります。

加賀山 なるほど、興味深いアレンジですね。休みとかは自由にとれるのですか?

笠井事前に伝えておけば、そのへんはかなり自由です。厳密に翻訳者のチームを組んでいるわけでもないので、ほかの方の都合を気にする必要はありません。

加賀山 働く人にやさしい会社という気がしますね。

笠井そうです。会社と翻訳者で一丸となってやっていこうという感じで接してくださるので、すごくありがたいです。

加賀山 プロフィールには「ポストエディット」も含まれていますが、これは機械翻訳に手を加えて完成させる仕事ですか?

笠井はい。ですが、機械翻訳といってもふつうの翻訳の仕事とそれほど変わりません。訳文の癖は多少ありますが、自分のなかでは、とくに抵抗はありませんね。
 マニュアルなど、内容が以前とほぼ同じで一部だけが変わっている場合などは、納期も短いので、今後も機械翻訳に手を入れる仕事は増えていくと思います。ただし、機械翻訳が適している分野に限るという条件付きでしょうね。

加賀山 機械だからといって特別に意識する必要はないのかもしれません。報酬も人による翻訳の場合と変わらないのですか?

笠井私の場合は先程お話ししたような報酬体系ですので、違いはありません。ただ、業界全体の話として、機械翻訳にすれば翻訳者の労力が減るだろうという理由で単価が通常の翻訳より安くなることも多いと聞きます。でも、それはあくまで機械翻訳の精度が優れているという前提であるべきだと思います。私はまだ経験が浅いので確かなことは言えませんが、実際はそこまでの精度のものはまだ少ないのではないでしょうか。むしろ通常の翻訳よりも手間がかかる場合の方が多いと思いますので、精度が低いのであれば、単価を下げるどころかむしろ上げるべきじゃないのかなとは感じています。

会社勤務からの転身

加賀山 フリーになられるまえは会社にお勤めだったとか。

笠井海運会社に11年勤めていました。

加賀山 いまのITの翻訳とは関係がなさそうですね。ITはどうやって学ばれたのですか?

笠井まだ学んでいる最中です。いまお世話になっている翻訳会社がITの翻訳をしているので、かかわるようになりました。サラリーマン時代の仕事だった海運や貿易に関連する翻訳はあまり需要がなさそうなので、そちらに絞ってやっていくのはむずかしいかなと思いまして。

加賀山 なるほど。翻訳もITも、新たな挑戦だったのですね。翻訳はフェロー・アカデミーで学ばれたそうですが、それは会社を辞めたあとですか?

笠井はい。会社を辞めてからです。

加賀山 どうして翻訳を学ぼうと?

笠井もともと外国語が好きで、大学でもスペイン語を専攻していました。卒業後、海運会社に就職して、一度同じ業界で転職したのですが、仕事が忙しくなりすぎて、体力的、精神的につらくなってきました。会社の業績も思わしくなくなって、それなら原点に立ち返って、好きな分野の仕事をしてみようと考えたのです。

加賀山 大胆な決断でしたね。私も最初は会社勤めをしていましたが、翻訳の仕事を始めてからも、収入が心配なので、しばらく会社の仕事を続けていました。

笠井そうですね。辞めたのは35歳のときでしたから、世間一般から見ればたしかに思いきった決断でした。ただ、幸いなことにしばらく暮らしていけるほどの蓄えはありましたし、子どもがまだいないというのもありました。子どもがいたら、もっと悩んでいたと思います。こんな決断を後押ししてくれた妻には本当に一生感謝してもしきれません。会社を辞めたときには、翻訳を学ぼうと心に決めていました。

加賀山 翻訳の学校はどうやって探しました?

笠井それほど数はありませんし、とくにどの分野をやると決めてもいなかったので、短期集中で全般的に学べるフェローのベーシック3コース(実務、出版、映像の翻訳を週3日、3カ月で学ぶコース)を選びました。

加賀山 そしてアメリアに登録して、トライアルに合格。順調な出だしですよね。

笠井退路を断ったからにはがんばろうという気持ちもありました。

加賀山 いまは映像翻訳の『ドキュメンタリーゼミ』で学んでおられるとか。

笠井はい。月1回のコースです。じつは先日、映像会社のトライアルにも合格しまして、初めて映像翻訳の仕事を受注しました。

加賀山 それはすばらしい。どのようなお仕事ですか?

笠井ネット配信のドキュメンタリーのボイスオーバーの仕事です。複数話あるうちの1話を担当しました。日中は実務翻訳の仕事があるので、夜間や週末などの合間の時間を使って何とか対応しました。翻訳スピードも翻訳した内容もまだまだ未熟だなと痛感しましたが、まずはひとつやり遂げたという自信にはなりました。

加賀山 映像翻訳をやろうと思ったきっかけは何でしょう。

笠井翻訳したい分野は最初から絞っていませんでした。フェローのベーシック3にかよっていたときには、どの分野もおもしろく勉強していましたが、生活を支えるという面から実務翻訳を選んだのです。
 ただ、せっかく勉強したので、引きつづきスキルアップはしていこうと思っていました。なかでも映像はおもしろそうだし、昔から映画やドキュメンタリーも好きでしたから、取り組むことにしました

加賀山 これもトライアルはアメリア経由ですか?

笠井これは違います。フェローで中級のクラスにいたときに、トライアル対策セミナーというのがありまして、課題を提出したのですが、そのとき講師をされていた会社さんから、実際にトライアルを受けてみませんかと声をかけられたのです。

加賀山 そして合格。やはり優秀なんですね。受けるトライアルに次々と合格されて。

笠井落ちたトライアルももちろんあります。合格率は50%くらいだと思います。いろいろ手を出してうまくいくほど甘い世界ではないのは分かっていますが、実務、映像、出版の3分野とも魅力を感じているので、これからは実務翻訳を軸として、ほかの仕事もしながら経験を積んで、自分の方向性を定めていきたいです。

加賀山 会社員と比べて、いまのほうが楽しいですか?(笑)

笠井そうですね。会社を辞めて2年ぐらいですが、おかげさまでいまのところは順調です。厳しさをまだ味わっていないとも言えますけど。
 フリーランスのほうが、気は抜けませんが、自分の責任を日々感じる、自分でなんでも考えてやる、という意味で張り合いがあります。気概が芽生えたというか。会社員を続けていたら、なれ合いになっていただろうなとも思いますし。それに、いま会社員時代の経験が無駄になっているわけでもありません。

加賀山 翻訳は、直接体験しているかどうかが本当にものを言う仕事ですからね。たとえば、船を操縦する場面を訳すときでも、自分が実際に操縦したことがあるか、あるいは見たことがあるかどうかで、ぜんぜん違います。

笠井こういう立場になったからこそ、いままでよりもっといろいろなことを見ておこう、やってみようという意識が高まっていますね。
 フリーランスのプレッシャーはありますが、いまは自分にとってプラスに働いているという実感があります。

毎日のスキルアップは……

加賀山 大学ではスペイン語を学んだそうですが、どうしてスペイン語を選ばれたのですか?

笠井恥ずかしながらたいした理由はありません。小学生のころから英語の塾だけは通っていて、それで外国語が好きになり受験も外国語の大学にしたのですが、天邪鬼なので、どうせなら英語以外の言語にしようと。スペイン語は話者人口が多いので、使えれば楽しそうだと思いました。それから、日本にいるとどうしても欧米中心のものの見方に触れる機会が多くなってしまうので、ラテンアメリカのような地域の視点から考える手段や知識を得たいという思いもありました。

加賀山 留学もされました?

笠井メキシコに1年間留学しました。スペイン語を勉強していると、スペインのほうを学ぶ人と、ラテンアメリカのほうを学ぶ人に自然に分かれていくんですね。私はラテンアメリカのほうに興味があったので、クエルナバカという街で少し語学学校に通ったあと、ベラクルス州のハラパという街に引っ越して勉強しました。ハラパの大学に、外国人向けのプログラムがあったのです。

加賀山 いま翻訳業界では、英語以外のことばができるとぜったいに強いと思います。たとえば、ミステリーの出版翻訳だと、このところ北欧が大流行で、スウェーデン語ができる方々は大忙しです。今後は中国語とか、かならず伸びてくるはずなので。

笠井自分でもそれは強く感じています。言語が違えば作品に漂う雰囲気もまったく違い、これまで味わったことのない新鮮さを与えてくれる気がします。ですから、英語以外の言語の作品を翻訳できる翻訳者というのは、まだ日本で馴染みの薄い異文化を伝えるという点で、さらに重要な役割を担っていくのではないでしょうか。
 スペイン語は、自分の視野を広げるきっかけを与えてくれた財産だという思いもあり、会社員時代もほそぼそと勉強していました。最近、新たにスペイン語のチェッカーの仕事もいただくようになったので、もっと力をつけて翻訳もやっていきたいと思っています。

加賀山 ほかにもこれから取り組んでみたい分野はありますか?

笠井いちばん経験があるのは、海運、貿易の分野なので、その方面の翻訳ができるといいのですが。

加賀山 けっこう需要はありそうですけど……。

笠井海運業界では、契約書などにしてもそのまま英語でやりとりすることが多いので、あまり翻訳する必要がないのです。ただ、調べてみると、いくつか関連の翻訳を扱っている会社もあるようです。この業界から翻訳の世界に転身した方がどれくらいいるかは分かりませんが、ひとつの売りになるとは思うので頑張って開拓していきたいと思います。
 あとは英文の契約書とか、チャンスをいただいた映像方面とか、少しずつ広げていきたいです。

加賀山 映像ではどういう分野をやってみたいですか?

笠井ドラマにも興味がありますが、やはりドキュメンタリーですね。ふだんからよく見ています。最近おもしろかったのは、旧ソ連のタジキスタンからイスラエルに移住した音楽一家の話でした。父親が絶対権力者として君臨し、日々の生活や、いろいろな国にツアーに行く中で織りなされる家族内の人間模様を描く作品でした。登場する楽器や音楽のスタイルが、自分にはまったく知らない世界だったので、とても興味深く見ました。

加賀山 ほう、おもしろそうですね。翻訳のスキルアップのために、ふだんやっていることはありますか?

笠井少しまえにこのコーナーでも紹介された、「翻訳ストレッチ」をやっています。

加賀山 なんと、ここにもいましたストレッチ・ファン(笑)。

笠井在宅で働くようになってから、朝、仕事のまえにやっています。日本の新聞の「天声人語」のようなコラムと、向田邦子さんや宇野千代さんなどの日本語のエッセイや小説を音読します。それから、原書と訳書の比較音読もします。今取り組んでいるのはカズオ・イシグロの『日の名残り』です。その他には、『英文法解説』、『ロイヤル英文法』といった文法書や、本田勝一さんの『日本語の作文技術』、中原道善さんの『誤訳の構造』、技術系の英文ライティングの本などを使って学習をしたり、TEDのプレゼンテーションを聞いたりもします。教材は、人から薦められたり、セミナーで紹介されていたりしたものを適宜取り入れています。

加賀山 すごいなあ。発案者の鈴木立哉さんに報告しておきます。

笠井最近、ツイッターを始めまして、「#翻訳ストレッチ」でストレッチの内容を報告したところ、なんと鈴木さんご本人からコメントをいただきました(笑)。それ以来、報告するたびに「いいね」をいただき励ましていただいております。同じように報告されている方のツイートを見ることも支えになっています。鈴木さんにはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
 仕事ばかりではなく、勉強しつづけないとだめだというのが頭にあって、勉強を習慣にしたかったので、ちょうどよかったです。1日の仕事のまえにするところもいいと思います。仕事のあとにまわすと、予定どおりに仕事が終わるかどうかもわからないし、疲れたからやめたとなることもあるでしょう。

加賀山 そうなんですよね。仕事のあとでと思うと、結局時間ができてもやらなかったりするので。

笠井「翻訳ストレッチ」のほかには、本を読んだりテレビを見ていたりして、気になる表現や知らなかったこと、いいなと思う言いまわしがあれば、メモをとるようにしています。今後は、日記や読んだ本の感想など、自分で文章を書くことも意識してやっていかないととも思っています。

加賀山 私もいろいろ記録を残しておこうと思いながら、なかなかできなくて。これから実務翻訳をめざそうという方に、何かアドバイスはないでしょうか。

笠井やはり専門分野があるといいですね。翻訳の仕事を始めたあと、同時に専門分野のブラッシュアップもするとなると、時間がなくてなかなかむずかしい。私自身は、会社員時代の専門がいまのところ翻訳とは直接関係がないので、現在も四苦八苦しながらやっているのが現状です。基礎は早いうちに作っておくといいと思います。

加賀山 準備は早めにということですね。たとえすぐに仕事に結びつかなくても、いずれどこかで役立ちそうです。

■話し方は淡々としておられますが、退路を断って一から勉強を始める決断力や、トライアルで道を切り開いてきた意志の強さが、ことばの端々に感じられました。そのうちスペイン語の出版翻訳にも進出されるのでは? 期待しています。
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