アメリア会員インタビュー




アメリカ生活で“英語嫌い”に大学は考古学を専攻しました


坂田
:では、中井さんの場合は、中学・高校を通してアメリカで英語漬けの生活を送り、そこから「英語が好き」になり「翻訳がしたい」へと発展していったのですね!

中井:ところが、そうではないんです。アメリカ時代、「英語」は嫌いな科目でした。これだけがいつも合格ぎりぎりラインで、コンプレックスがあったんです。


坂田:「英語」の科目というのは、日本で言うところの「国語」ですか? つまり母国語として、読み書きを学ぶ授業ということ?

中井:そうです。なかでも苦手なのはスペリングで、これは今でも苦労しています。ボキャブラリーも苦手。あと、シェイクスピアの音読があって、これがいちばんキライでありました。結局のところ、ネイティブの人たちと一緒のことをやって、肩を並べることが出来なかったことが嫌だったんですね。

坂田:アメリカには、いつ頃までいたのですか?

中井:中学で半年、高校で半年、スキップ進級したので、日本の教育課程よりも1年早く高校を卒業し、帰国しました。同じ歳の人たちが高校3年生をやっている1年間、予備校に通って、日本の大学を受験しました。

坂田:大学は考古学を専攻されたとか。

中井:本音を言うと、英語が嫌いだったので、英語とは関係のないものを専攻したいと思っていたんです。最初は美術学校へ行こうかとも考えたのですが……。親戚に画家がいて、この大叔父が非常に“芸術家”で、今ならわかるのですが、当時は子ども心に「画家になるとおじさんみたいになってしまうのか」と不安に感じまして、美術学校はやめにしました。歴史も好きだったので、次に考えたのが美学か考古学でした。考古学は美学ととても共通する部分がある学問なんですよ。当時は子どもなりに真剣に考え、将来は博物館か美術館に勤めようと、考古学を選びました。

坂田:博物館か美術館に勤めるという夢は、その後どうなったのですか?

中井:幸い、指導者に恵まれまして、自分でも信じられないことでしたが、そのまま専門の研究者になってしまいました。

坂田:英語が嫌いで、考古学を志したということでしたが、では、翻訳を仕事にと考えたのは、何がきっかけだったのですか?

中井:大学・大学院時代の研究テーマに東南アジアを選んだので、取り扱う文献がほとんど海外のものであったこと、大学院の教授が海外留学経験もありアメリカ考古学に詳しい方であったり、また別の指導教授も南太平洋をフィールドにしていらして、海外経験が豊富で、ゼミなどでも大量の海外文献を読まされたこと、そして帰国子女であったことなどから、“翻訳すること”には馴染みがありました。そこで、ときどき翻訳を頼まれたりして、恐いもの知らずで引き受けていたんです。そのうちのひとつに、江戸東京博物館の特別展の図録をすべて翻訳するという仕事がありました。すでに翻訳事務所を開いていた友人と、英国人の友人と、3人で引き受けてなんとか完成にもっていったのですが、今から思えば、この仕事を通して翻訳の面白さに気がついたような気がします。その後も、研究職を続けていたのですが、40歳を目前に身体的にも精神的にも大変辛くなり、職場を退職して少し自宅療養することになってしまいました。自宅で出来る仕事はないかと考えたときに頭に浮かんだのが翻訳でした。

坂田:江戸東京博物館の図録の翻訳で気づいた“翻訳の面白さ”とは、具体的にどういうことですか?

中井:それまでは、英語の時は英語モード、日本語の時は日本語モードで、完璧に切り替えて対応していました。ですので、翻訳をしても直訳的で、よく言われる「直訳でも意訳でもない」ということが、全く理解できていなかったのです。この江戸東京博物館の仕事は、長い文章を一般の人向けに翻訳するという作業で、これを体験したことで、原文を十分読みこなして、言外の意味も読み取り、目的に応じた日本語にするということが、おぼろげながらわかってきました。このときの文章は、今見ると、直しまくりたくなってしまうのですが、もっときちんと英語を勉強した方がいいのかもと思うきっかけにもなりました。

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