濱野 :フリーランスになるまえは、SEとして企業にお勤めだったということですが、具体的にはどのようなお仕事だったのですか?
村地 :大学院で化学の修士課程を終えたあと、2つの会社でシステムエンジニアとして通算8年ほど働きました。プログラミング、データベース、通信、システム設計、プロジェクト管理、保守・運用、ユーザー教育まで一通りやりました。そこから管理職を目指す道もあったと思いますが、当時はそういう志向はあまり持っていませんでした。とくに、2つ目の会社ではプラントのシステムが相手だったので、自動車、機械、半導体、製紙、製薬など、日本各地にあるさまざまな業界の工場や研究所などを数週間から数ヵ月単位で飛びまわる生活でした。そのなかで数多くの貴重な経験をしましたが、この生活をいつまでも続けるわけにもいかないなと感じていました。それであるとき、思い立って退職を決意したのです。忘れもしません、2000年の9月14日のことです。
濱野 :おぉ、すごい! そんな細かい日まで覚えているとは。その日に何が?
村地 :その日、東京にある製薬会社の研究所に行く途中、新幹線の車中でホセ・マルティというキューバ独立の英雄の伝記を読んでいたんです。私は学生のころから中南米の文化や歴史に強い関心がありましてね。その本のなかに、マルティが若いころ、スペイン追放中に英語の翻訳をしていたという一節があったんですよ。まあ、わずか一行くらいの、普通なら読み飛ばしてしまいそうなエピソードなんですけど。なぜかそれでピンと来ちゃったんですね(笑)。当時、社内で片手間に翻訳の仕事もしていたので、英語で食っていくという道があるかもしれない、と思い付いたんです。
濱野 :本のたった一行―それが村地さんの運命を変えた。それで、SEの知識を活かしてIT翻訳者にという流れですね。
村地 :大筋はその通りですが、ちょっと紆余曲折がありまして(笑)。実は、初めは通訳になろうと思ってたんですよ。会社を辞めたあと、まず有名な通訳養成学校に入りました。しかし、当時の英語力では通訳への道はちょっと遠すぎました。1年半ほど勉強して、資格で言えば英検1級・TOEIC 900点前後のレベルに引き上げましたが、その程度でプロの通訳になどなれるわけがありません。無謀と言えば無謀でした。そうこうするうちに貯金が尽きる寸前まで行ってしまって(笑)。なんとか早く英語の仕事を見つけなくてはということで、近くの翻訳学校に駆け込んだのが始まりです。
濱野 :通訳か翻訳で迷う人は多いですよね。英語が好き、という方はとくに。通訳の勉強をしばらくしたあと、やっと初めてIT翻訳が出てくる。
村地 :ほんとうのところは、もともと興味のある経済・金融系の翻訳をやりたかったんです。自宅での独学や通訳学校でも、英語の勉強は政治・経済が中心でしたから。しかし、翻訳学校のカウンセリングで相談したところ、「せっかくそれだけの業務経験をお持ちなら、ITでいくのがいちばんの近道では」とアドバイスされまして(笑)。
濱野 :元SEということで、当然と言えば当然ですね。
村地 :やはり翻訳会社も職歴を重視しますから。半年ほどITの翻訳講座で勉強したあと、英字新聞の広告欄に出ていた翻訳会社のトライアルを受けてみました。結果的にこれが大当たりで、勉強を開始して8ヵ月後くらいにはもう仕事を始めていました。