【アメリア】Flavor of the Month 77 大里 隆幸さん
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Flavor of the Month
<第77回>  全5ページ


エンジニアの仕事から変化を求めた20代後半。出会うべくして出会った翻訳への道

岡田 :小学3年生から大学卒業までアメリカで教育を受けられたということは、当時は英語のほうがお得意だったのでは?

大里 :そうですね。特に大学4年間は親元から離れていましたから、ほとんど日本語は使わない状況でした。両親が日本人ですから高校まで家では日本語で、あとは現地の日本語の補習校にも通っていましたね。

岡田 :楽器メーカーのエンジニア志望で、電気電子工学をご専攻ということでしたが、大学卒業後の進路は?

大里 :日本で楽器メーカーへの就職活動をはじめて、無事採用されました。電子楽器と言えば日本のメーカーが主流ですし、日本で暮らしてみたいという気持ちがありましたから。親の意見もあったと思います。もうアメリカ人になっちゃって、ちょっと日本にいたほうがいいんじゃないかって(笑)。

岡田 :たしかにアメリカは長くいるとアメリカ人になる、と聞きます。もう少し日本のアイデンティティーを、ということですね。いざ楽器メーカーに就職し、言ってみれば「第2の文化」の中での社会人生活のスタート。カルチャーギャップなどありましたか?

大里 :はじめての就職が日本の会社で、社会人生活をアメリカと比較することがなかったので、会社でのカルチャーギャップはなかったですね。どちらかと言えば生活面とか、人付き合いの面がだいぶ違うので、戸惑いはあったと思います。でもあまりストレスには感じませんでしたが。

岡田 :それにしてもエンジニアリングができて、英語ができて、日本語ができてというのはたいへんな能力ですね。当時は日本語のテクニカルライティングなども問題なく?

大里 :いえ、当時、日本語は苦労しましたよ。一番たいへんなのが議事録。「議事録をつけてくれ」と言われても……書けない(笑)。海外生活が長いから特別扱いということはなく、新入社員だから議事録をつける、という感じで頼まれましたね。今思えば、それがいいトレーニングになりました。

岡田 :エンジニアから翻訳の道へ進まれるまでの経緯はどういったものだったんですか?

大里 :勤めていた楽器メーカーは大企業で、エンジニアは自分の専門の仕事だけに集中するんです。自分の作った製品がどのように世界で役立っているか、扱われているかというのはほとんどわからない。そんな世界から出たかった、変化が欲しかったんですね。仕事をはじめて5、6年。なにかそろそろ新しい事をしたいなとも考えていました。そんな時、たまたま翻訳の仕事に出会って、翻訳で生計をたてられる感触がつかめたので、思い切って職を変えました。

岡田 :当時、27、8歳ですね。その翻訳の仕事にはどのように?

大里 :「英語をいかした仕事」というようなキーワードでネットで調べたと思います。当時はまさにインターネットの幕開けで、今では考えられないようなチャンスがたくさんありました。たまたま日英の翻訳の求人情報があって、フリーランスを募集していたので応募したんです。

岡田 :日英の需要はかなり高いですよね。さらに技術系のプロフェッショナルとなると需要は相当。「出会ってしまった」という感じですね(笑)。

大里 :そうですね。実際仕事をしてみると、翻訳の仕事はとてもおもしろかった。もともとビジネスが好きなので、自分で営業してビジネスをとるということに魅力を感じたものありました。報酬も悪くないし、本業にしたらもっと期待できそうな世界も見えてきたんです。次の仕事を探していると「社員募集」がとにかく目立つ。でも私はもう社員になるつもりはなかったので「仕事はきちんとやりますので外注として務めさせていただけませんか」と売り込んで、仕事をいただけるようになりました。

岡田 :最初はフリーランスでお仕事を?

大里 :はい。でも取引先が大企業で、こちらも法人でなければいけない部分がでてきたので「じゃ明日作っちゃお」と、すぐに会社を立ち上げました。

岡田 :すごいフットワークですね。専門知識を身につけたエンジニアからの思い切った転身になりましたね。

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