【アメリア】Flavor of the Month 42 中西梨恵さん
読み物
Flavor of the Month
<第42回>  全4ページ


中西梨恵さん

第42回
ロシアとモンゴルで計7年間暮らし 日本語教師と翻訳の仕事に やりがいを感じています
  中西梨恵さん
Nakanishi Rie

切望してロシア語を学びはじめるも、将来の目標が見つからない日々


坂田:今月のゲストはロシア語とモンゴル語がご専門の中西梨恵さんです。中西さんは、ロシアとモンゴルの大学で日本語を教えた経験があるそうです。その時のお話をたっぷり聞かせていただきたいと思います。よろしくお願いします。

中西:こちらこそ、よろしくお願いします。

坂田:ロシアとモンゴルには、いつ頃いらっしゃったのですか?

中西:1998年から2003年までロシアで、その後2005年までモンゴルで日本語教師をしていました。

坂田:専門はロシア語だそうですが、ロシア語を勉強しようと思ったきっかけは?

中西:よく聞かれるのですが、実はとてもミーハーな動機なので答えるのが恥ずかしいんです。1988年のソウルオリンピック、私は中学3年生だったのですが、体操競技のソ連選手にドミトリー・ビロゼロチェフという人がいました。ロシア人独特の抜けるように白い肌に栗色の髪、とび色の瞳。その方に一目ぼれしてしまったのです! ソウルオリンピックというと、日本人選手では池谷・西川の高校生コンビが大活躍していたので、友達は皆「きゃぁぁ!池谷さ〜ん!西川さ〜ん!」って叫んでいました。そんな中、私は一人で「ビロちゃ〜ん!」って。その頃から語学は好きだったので、これはもうロシア語を勉強して、ビロちゃんに会いに行くしかない!と(笑)。結局、愛しのビロちゃんとの再会はなりませんでしたが、ロシア語とのよい関係はその後もずっと続いています。

坂田:中学3年生というと多感な時期ですね。それから3年後の大学受験でロシア語を学べる大学を選んだのですね。

中西:そうです。1年浪人をして外国語大学の国際文化学科に入学し、ロシア語を専攻しました。

坂田:では、その頃から、いずれはロシアに住みたい、あるいはロシア語を使って仕事がしたいという考えがあったのですか?

中西:いいえ。ロシア語を勉強したいとは思っていましたが、それを将来どう生かしていくかについてのビジョンは持っていませんでした。入学当時は、いろいろなことを勉強していくうちに将来の希望も出てくるだろう、と思っていたんです。でも実際は、ロシア語も含めて、どんな授業をとっても、夢中になれませんでした。

坂田:あれほど憧れたロシア語を勉強するようになったのに、どうしてでしょうね。

中西:今考えてみれば、その頃の私は「待って」いるばかりだったんでしょうね。高校までの私はいわゆる「優等生」で、特に努力をしなくても先生方に認めてもらえる状態が当たり前になっていました。ところが、大学に入ったら自分より優秀な人はいくらでもいるし、何よりも彼らは自分からどんどん先生のところに押しかけていくのです。授業が次第に先生と親しくなった優秀な学生の独壇場になっていくのを、私は指をくわえて眺めていました。だったら自分も負けずに勉強すればいいのに、変なプライドが邪魔をして拗ねているだけでした。すっかり「その他大勢」になってしまった自分に腹がたって、ますます大学が面白くなくなっていきました。そうするともう悪循環です。勉強に身が入らなければ、将来の目標も立てられない。不安になる、焦る、の繰り返しでした。ロシア語の成績が大きく下がったとき、一度だけ「あなたどうしたの?」と心配そうに声をかけてくださった先生がいました。あの時素直になっていれば……と思います。

坂田:では、大学では思うようにロシア語の実力を伸ばすことはできなかったのですね。将来に対する目標も見つからなかった。でも4年間はあっという間に過ぎてしまいますよね。卒業後はどうしましたか?

中西:就職活動もしたのですが、就職して会社勤めをしている自分というものが想像できず、大学院に進学しました。大学で自分が満足できるような勉強をしてこなかったこともあって、社会に出て働くのが恐ろしかったのだと思います。将来が見えず、「こんな状態で社会になんか出たら、私は一体どうなっていくのだろう」と怖くて仕方がありませんでした。

坂田:大学院では何を研究していたのですか?

中西:ロシアのユダヤ人のことをテーマにしていました。ただ、これが例に漏れず楽しくなくて(笑)。どこに行って、何をすれば私は満足できるのか、自分でもまったくわからず、もう泣きたかったです。

トップへ 次へ