【アメリア】Flavor of the Month 42 中西梨恵さん
読み物
Flavor of the Month
<第42回>  全4ページ


ロシア語は“土の匂いのする言語”

坂田:1998年にロシアに行くことになったそうですが、そのきっかけは?

中西:あれだけ勉強したかったはずのロシア語なのに、ほとんど使い物にならない。だからといって、ロシア語を捨ててまったく畑違いの分野に飛び込む勇気もありませんでした。そんな迷いの日々を送っている時に、大学院経由で、ロシアのブリヤート共和国で日本語を教えてみないか、という話をいただいたのです。ロシアに行くなら日本人のいないところ、と以前から思っていたし、日本語を教える、という仕事にも魅力を感じました。

坂田:じゃあ、一も二もなくOKの返事を?

中西:いいえ。魅力を感じながらも、これ以上、歳をとってもよいものか、と迷っていたんです。そんな時に恩師から、「目的がないまま行くのならやめなさい!」と一喝されて……。吹っ切れました。あの一言がなければ今の私はありませんでした。叱ってくれた先生には心から感謝しています。

坂田:外国で日本語を教える場合、日本語教師としての資格は必要ないのですか?

中西:「日本語能力検定試験」という制度がありますが、恥ずかしながら、当時の私はその存在すら知りませんでした。雇用先の大学が求めていたものが、「ロシア語ができること」だったので、検定の受験経験がない私も雇ってもらえました。

坂田:ロシア語を学んでいたとはいえ、いきなり日本語を教えるなんて、大変な仕事ですよね。いかがでしたか?
ブリヤート国立大学にて。日本語専攻の学生たちと
中西:最初は私のロシア語能力にもかなり問題があったので、本当に大変でした。学生と私と、どっちが先生なのかわからなかったぐらいです(笑)。教材も限られていたので、本当に手探りで、毎日遅くまで授業の準備をしていました。当初いちばん辛かったのは、日本のやり方が通用しなかったことです。日本では生徒全員に資料のコピーが渡されるのは当然ですよね。でも、紙やコピー機が貴重品であるロシアでは、大学側から「そんなもったいないことはしないでくれ」と言われて、驚きました。

坂田:私はロシアに行ったことがないのですが、中西さんから見たロシアはどんな国ですか?

中西:私が初めてロシアを訪れたのは1993年の春でした。大学1年を終えた春休みに1ヵ月半の語学研修でモスクワに行きました。初めて空港に降り立ったときの第一印象は「暗い!怖い!」でしたね。建物の中の照明の数が少なくて、全体的に暗いのです。大柄で表情の険しいロシア人が、とても恐ろしく感じられました。

坂田:「暗い!怖い!」という第一印象は、その後、変わりましたか?

中西:はい、実際に5年間住んでみて、大きく変わりました。人間、何に恐怖を感じるのかと考えた場合、その対象のことが分からないときがそうなのではないでしょうか。私たち日本人は、ロシアという国を、よく「近くて遠い国」と表現します。地理的には近いけれど、その内情をほとんど知らないのです。知っていたとしても、スターリンの大粛清とか、シベリア抑留、冷戦時代のソ連に、ソ連崩壊後の社会の混乱、とマイナスイメージのオンパレードです。そんな国のことを“怖い”と思うのは当然ですよね。でも、ロシア人を隣人として暮らしてみると、これほど陽気でおおらかな人々はありません。私が知り合った人は皆、心温かい愉快な人ばかりでした。もちろん、ロシアは麻薬や内紛を始め、深刻な問題をいくつも抱えているし、日本に比べれば治安も悪いでしょう。でもどんな困難に陥ったときにも、身近な人々が助け舟を出してくれ、そんな人々の好意に助けられた5年間だったといっても言い過ぎではないほどです。

坂田:そうですか。ロシアでとてもよい隣人、友人に恵まれたのですね。もう一つお聞きしたいのですが、ロシア語というのはどんな言語ですか?

中西:そうですね……、ここまで身近になってしまうと客観的に表現することが難しいのですが、「厳しい自然を相手に育んできた深い精神性と、言語としての高い芸術性を持つ、土の匂いのする言語」というところでしょうか。ロシア語は、言語はそれを話す人の精神性とは切り離せないものだということを、初めて私に教えてくれた言語です。

坂田:「言語はそれを話す人の精神性と切り離せない」というと?

中西:例えば、日本人には「あうんの呼吸」というものがあります。特にはっきりと口に出して言うことはしなくても、相手に通じるということです。でも、それは外国人には通用しません。自覚のないままに日本人の感覚で発言をしていて、そんな私の本当の気持ちが相手に通じず、不満を募らせていたときに、「要求ははっきり言ってくれないとわからない」と言われて、目が覚める思いをしたことがあります。それから、私は日本語とロシア語とモンゴル語、英語を使いますが、使う言語によって、声のトーンや自分の性格が変わるような感覚もあります。

前へ トップへ 次へ