【アメリア】Flavor of the Month 46 田中健彦さん
読み物
Flavor of the Month
<第46回>  全6ページ


田中健彦さん

第46回
高校時代に英語の魅力に取り憑かれ 定年退職後に翻訳家になりました
  田中健彦さん
Takehiko Tanaka


見知らぬ外人に話しかけて英会話力UP!

坂田:今回のゲストは、定年退職後に翻訳家になる決心をし、今回、念願だった初の訳書『実践EQ 人と組織を活かす鉄則』を出版なさった田中健彦さんです。「英語が趣味」とおっしゃる田中さんに、学生時代から現在まで、英語と深く関わってきたお話を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。

田中:こちらこそ、よろしくお願いいたします。

坂田:「英語が趣味」ということですが、いつからですか?

田中:高校生のころからですね。中学のときは英語とは無縁で、小説を読むこと、書くことに夢中になっていました。

坂田:中学生のころに小説を書いていたんですか?

田中:中学の夏休みに、何かを作って提出するという宿題があり、私は小説を5編ほど書いて文集を作ったんです。小説を読むのが好きで、読んでいるうちに書いてみたいなと思うようになっていたんですよね。これが金賞に輝いたんです。ただ、子ども心に「小説家では食べていけないな」と思っていたので、将来は新聞記者になりたいと思っていました。

坂田:そのころ、英語は好きではなかったのですか?

田中:好きな教科は国語と社会でしたね。英語は特に好きでも嫌いでもありませんでした。ただ、英語の先生がとてもよい先生で、教科書を丸暗記しなさいと言われて、一生懸命音読して暗記したのを覚えています。これはとてもよかった。あのころ覚えた英文は、今でも忘れていませんよ。

坂田:それが、高校になると英語を好きになるわけですよね。そのきっかけは?


田中:高校に入ったら、いろんなクラブがあって、どれに入ろうか迷っていました。そんなとき、中学時代からの親友が“英語会”という英会話クラブに入ろうというので、入る気はなかったのですが、ちょっと覗いてみることにしたんです。すると、上級生がアメリカ人とペラペラ喋っているんですよ。驚きでした。あんなになれたらどんなに素晴らしいだろう、とあこがれてそのまま入部してしまいました。

坂田:もし、友人が誘ってくれなかったら、そのときその場面を目撃しなければ、人生は違っていたかもしれませんね。

田中:そうですね。英語と関わりのない人生を送っていたかもしれません。

坂田:その“英語会”では、どのような活動をしたのですか?

田中:とにかく英語を話して習得しようという会です。何かしら生の英語に触れる機会を作らなければならないと、いろんなことを仕掛けるんです。例えば、夏休みに町に出て行って、外国人と見たら話しかける、そういうことをしました。当時、『ボーイハント』という映画があったのですが、それをもじって『外人ハント』と呼んでいました。

坂田:どのように話しかけるんですか?

田中:“Excuse me. May I speak English?”って。これしかないですよ。でもね、ただ町を歩いているときって誰もニコニコしていないでしょう。怖い顔をしている。断られたらどうしよう、お前は何者だって言われたらどうしようと腰が引けて、最初はなかなか話しかけられませんでした。

坂田:どのように勇気を振り絞ったのですか?

田中:とにかくどんな表情をしていても、次に会った外人には絶対に話しかけようと心に決めて実行しました。すると、100人が100人、親切に話をしてくれるんですよ。これで随分と度胸がつきました。この外人ハントは私の学年からスタートして、その後後輩にも受け継がれていきました。

坂田:自分たちで工夫をして勉強をしていたんですね。他にも何か特別な学習法はありましたか?

田中:学習法というわけではありませんが、米軍の横須賀基地にあるボーイスカウトから日米ソフトボール親善試合をしようというお誘いが来たことがありました。真夏の太陽の下、汗みどろで善戦して、試合の後は基地内の食堂でランチを食べました。カウンターに料理がずらりと並んでいて、デザートのケーキまでありました。それがすべて食べ放題というのでびっくり仰天したことを覚えています。あのとき飲んだ甘くて冷たいミルクシェークが今でも忘れられません。アメリカとはこれほど豊かな国なのかと心底感心し、一気にアメリカ留学の夢が膨らんだんです。

坂田:留学する方法は何かあったのですか?

田中:はい。高校から推薦奨学制度がありました。20校ぐらいから1人ずつ推薦された生徒が選抜試験を受けて、一番優秀だった1人が留学できるというものでした。私は各校1人の推薦枠をかけて同じ英語会の友人と競ったのですが、成績が及ばず負けてしまいました。結局、その友人が選抜試験でもトップの成績を修めて留学を果たしました。

坂田:それは悔しかったでしょうね。

田中:はい。もう悔しくて悔しくて、留学がダメならと通訳案内業の国家試験に挑戦することにしました。ちょうど1964年のオリンピックの年だったので、ガイドの需要が増えるだろうという目算もありました。それに18歳で合格できたら日本最年少記録になるということを知って、俄然やる気になったのです。

坂田:日本最年少記録というのはすごいですね。で、結果はいかがでしたか?


田中:おかげさまで、無事合格することができました。ただ……

坂田:ただ……?

田中:日本最年少記録というのは、一緒に受かった私より誕生日が数カ月遅い女性に奪われてしまいました。彼女は朝日新聞のコラムにも載ったんですよ。

坂田:またまた、悔しい思いをされたんですね。

田中:はい。でも、これがちょうど高校卒業の年で、アルバイトができるようになったので、派遣ガイドの仕事をしてお金を貯めることができました。この時に貯めたお金が後に非常に役に立つことになるんです。
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