【アメリア】Flavor of the Month 54 ラッセル秀子さん
読み物
Flavor of the Month
<第54回>  全4ページ


次第に引かれていった、翻訳の奥深さ、面白さ

坂田:ラッセルさんは卒業後は通訳者になろうと思って勉強をされていたのですか?

ラッセル:はい、学生の頃はそう思っていました。ただ、卒論として書籍の翻訳をしたことで、翻訳に対する興味も深まっていきました。

坂田:卒論はどのような内容だったのですか?

ラッセル:何か1冊本を選んで翻訳すると、それ自体が卒論として認められました。ただし、翻訳だけでなく、翻訳のプロセスや翻訳上の問題点などをまとめて論じたものを合わせて提出することが課されました。翻訳は1冊すべてではなく、一部を選んでの訳出でした。卒論にはほかにも選択肢があり、ターミノロジーの研究や、旧訳が出ているものを改めて訳して、比較して論ずるというものもありました。

坂田:ラッセルさんはどのような本を選びましたか?

ラッセル:書籍名は、“When Battered Women Kill”です。著者はDV(ドメスティック・バイオレンス)を研究する心理学者で、内容は、長年のDV地獄の果てに、DV被害者の女性が逆に夫や恋人を殺してしまったケースを研究したものです。男性の暴力がエスカレートして殺されそうになり、正当防衛のような形で逆に殺してしまうケースが多いのです。DVに関する社会心理学的な説明と、実際のエピソードの再現シーンが同時進行で展開されます。私が卒論を書いていた92年当時は、日本語ではDVという概念自体がなかったため、「domestic violence」に該当する訳語を考えるのに苦労しました。インターネットもなかったので、雑誌で類似記事を調べるなどして、作業を進めました。かなり衝撃的な内容だったので、それぞれのエピソードなどはよく覚えています。

坂田:モントレー国際大学院を卒業後は、どうされましたか?

ラッセル:実は、日本の大学で日本語教師の資格を取っていたこともあり、モントレー国際大学院にいたときに、日本語を教えるアルバイトをしていたんです。1990〜92年のことですから、日本経済が大変強い時期で、アメリカの大手企業が日本に自社の社員をどんどん送り込んでおり、これから日本に赴任しようとする大手企業のビジネスマンに教える仕事がけっこうありました。
そのうち何名かの方に、私が大学院卒業後に日本でフリーランスの翻訳・通訳をやるつもりだということを話したところ、個人外注業者として契約を結んでくださったので、日本に帰国して仕事を始めたときに、それがとりあえず安定収入となりました。いずれも分野は技術系で、翻訳に関しては、社内文書やマニュアルなどが多かったです。

坂田:他にも、取引先を増やす努力などしましたか?

ラッセル:その他は、通訳会社に何社か登録し、できる仕事からどんどんやっていったのですが、通訳会社の中には翻訳業務も請け負っている会社が多く、翻訳の仕事も頂くようになりました。あとは友人のつてなどで来た仕事もありました。内容的には、広告・カタログやビジネス文書などが多かったです。その後、社内翻訳者として製薬会社で仕事をしていた時期もありました。内容は副作用の症例報告や医学論文などで、はじめはわからないことだらけでしたが、社員の方たちに質問することができたので、大変勉強になりました。

坂田:通訳に絞らず、翻訳と両方のお仕事をなさっていたのですね。

ラッセル:当初は通訳一本でやろうと考えていましたが、おかげさまで翻訳の仕事も自然に入ってきました。来るものをすべて受けていたら、いつのまにか両方やっていた、という感じです。

坂田:現在は翻訳の仕事がメインということで、その後、翻訳に移行するきっかけが何かあったのですか?

ラッセル:ずっとやりたかった通訳なのですが、翻訳と両方やるようになり、年を重ねるにつれ、自分が本当に向いているのは翻訳ではないかという思いを強くしました。

坂田:翻訳に向いているというのは、どのようなところから思うようになったのですか?

ラッセル:不明な点はじっくり調べられること、一人での作業が苦にならないこと、ある程度は自分で仕事時間を管理できること、そして書いたものを何度も推敲する作業が好きであること、などです。その後、出産とアメリカへの引っ越しをきっかけに、通訳はきっぱりやめました。

坂田:お名前からすると、国際結婚でしょうか。

ラッセル:はい。主人はモントレー国際大学院の通訳・翻訳課程のクラスメートで、卒業後に結婚しました。卒業後にはとにかく日本でフリーランスで通訳・翻訳をやりたいという強い希望がありましたので、主人を日本に引っ張っていきました(笑)。アメリカにまた戻ることについては、当初はあまり考えていなくて、主人も翻訳をやるつもりだったので、一緒に個人事業形態、今でいうSOHOで仕事をしていました。日本で4年ほど仕事をし、妊娠した時点で、日本とアメリカのどちらで子供を育てようかという話になりました。どちらも大好きな国なのですが、結局どちらかというと私の意見でアメリカを選び、上の子が2カ月のときに、モントレーにまた引っ越してきました。

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